慈救咒:これを唱えると、災いを避けられ、願いも成就するという

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何度、この手は掴み損なったことだろう。

何度、この身を挺しては護ることができなかっただろう。

 

男は何度でも何度でも悲劇の渦中にその身を投じた。

 

英雄になりたかったわけではない。

聖者になりたかったわけでもない。

 

ただ、人を救いたかった。

 

しかし、予想以上に人は愚かで、過ちはいくらでも繰り返され、悲劇は終わることなく肥大していく。

それでも救う価値はあると男は信じていたし、人を愚かだと思うのは己の未熟が原因だと考えた。

ゆえに、ひたすらに鍛錬を続け、自身を虐め抜いた。

才能のない男にはそれぐらいしかできなかったからだ。

 

ほどなく、男は身も心も強靭になった。

 

それでも、人は救えなかった。

 

人を救えないたびに、自身を責め、未熟を呪い、苦悩を募らせた。

 

夏が過ぎ、秋も冬も過ぎ去って、春が芽吹き、また夏になっても、それが何度繰り返されようとも、男は人を救えないでいた。

 

自身を責め続け、未熟を呪い続け、苦悩の色はどこまでも濃くなっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジクジクジクジク・・・・・・・・・

八月が始まり、蝉の鳴き声はより一層けたたましく、まるで一夏しか生きられないことを呪うかのように響いている。

夏の暑さを貪欲に吸収する四方の土壁は、黙々と熱を保有しながら室温を着実に上げていた。

茹だるような暑さ。

蝉の呪いが込められたような粘りつく猛暑の中、男は安物のベッドから身を起こした。

「・・・・・・・・・」

大柄なその男が動くたびに、パイプベッドはギシギシと軋み音を立てた。

中央軍司令部から支給されているというそれはひどく安物で、寝返りを打つたびに悲鳴のような音を上げる。

「・・・・・・・・・」

男はわずかにまどろむ事もせずに起き上がると、壁にかけてあった白衣を着込んだ。

黒のスラックスと、黒のタンクトップの上に羽織る染み一つない白衣は、異常に際立っており見るものは純白にさえ映るだろう。

男は白衣のボタンをいくつか適当に詰めると部屋を一瞥した。

「・・・・・・・・・」

たいして広くもない室内は、白い土壁に覆われ、ただ一箇所だけある窓から差し込む朝日だけで一部始終を見渡すことができる。

とはいっても、ベッド以外には何もない部屋だった。

ただ締め切っているために、蒸し風呂のように熱気だけが充満していた。男はひとかけらも汗をかいていなかったが。

やがて、彼の視線はベッドの真向かいにある白いドアと、その傍に無造作に脱ぎ捨てられた軍靴(これもまた黒い)をとらえるとゆっくりとした動きで、素足のまま軍靴を履いた。

厚底の軍靴は背の高い男の目線をさらに上へと押し上げる。

コツコツと二度三度つま先を床に打ち付けて履き心地を確認すると、男はドアノブに手をかけた。

予想以上にドアノブは熱せられていたが――子供の手の皮であれば軽い火傷をしたかもしれない――男は表情を崩すことなくドアノブをゆっくりと回して扉を押し開いた。

荒耶宗蓮特務士官は、その厳(いかめ)しく苦悶した面を隠すこともせず己の部屋を後にした。

 

 

1940年代半ば、大日本帝国は大東亜戦争のただ中にあった。

ラジオでは自国優勢、異国での連戦連勝などを毎日のようにガナリ立て、戦意高揚を図り、神国日本の勝戦ムードを作ることに躍起になっていた。

しかし、実際のところ、資源の枯渇や度重なる空襲の被害により国土は疲弊し、人民は飢えに苦しんでいる。

それでも、誰もが国の勝利を信じていた。

そんな時代、軍都と呼ばれた地に、荒耶宗蓮は居た。

 

 

「どうした?荒耶くん」

「・・・・・・特に」

荒耶宗蓮が他者に対して何がしかの感情を抱くことは皆無である。

しかし、彼の面持ちを見た人間は必ずといっていいほど、まず彼の様子を気にする。

40ほどの壮年男性なのだが、平時からその人相は深い皺を眉間に幾重も刻みこみ暗く苦悩に満ちたもので、彼の感情を表情から垣間見ることは不可能に近いためだ。

日本人には珍しい巨躯はそこにいるだけで他者へ圧力を与えるというのに、重々しい表情を崩さない彼と接するのは誰しもが少なからず恐怖を感じる。

というわけで、豪壮なソファに腰を落とす口ひげを蓄えた恰幅のよい男性は、荒耶を見上げながら慎重に言葉を選んでいるようだった。

「あー、そうかね。うんうん。いや、いつも君は表情が変わらないからね」

「・・・・・・・・・」

「・・・・・・ん、ゴホッ、その、計画は順調かね」

「えぇ――」

「おぉ!そうかそうか!!いやぁ、よかった―――」

その荒耶の肯定の言葉に、男はどうでもいいようなことをペラペラと上機嫌にしゃべりだした。

大日本帝國がどうしたの、鬼畜米兵をどうするの、自身の輝かしい来歴の数々、現人神がどうだこうだ、こちらが聞いていようが聞いていまいが彼には関係がないようで、ひたすら捲くし立てている。

ほとんどの人間は一方的に聞かされるこのくだらない長話に辟易するだろうが、荒耶は一欠けらもその表情を変えることなく、直立不動でただ粛々と立っていた。

「・・・・・・・・・」

彼からすれば、ダラダラと続く言葉など蝉の鳴き声とそう大差ないものであったし、ジクジクと鳴き喚く蝉にいちいち心中を波立たせるような男ではないからだ。

しかし、荒耶が何も考えていないわけではない。

(・・・・・・・・・ふむ)

ツバを撒き散らしながら、嬉々としてスマトラ島での武勇伝を語っているこの太り気味の将校は、荒耶がこの基地に召集された頃から最高責任者を務めていたが、どうみても優秀には見えない。

そんな彼がいかにして今の地位を手に入れたのかは非常に興味があるが、それこそ誇張と欺瞞に満ち満ちた武勇伝を延々と聞かされるだけだろう。

(・・・・・・昔からこういった人間が地位を得ているのは確かだな)

文化、文明は発展しても人の発展はさしてないのかもしれない。

「閣下・・・・・・」

「――であるからして、今日の――あ、うん?何かね?」

「失礼、とにかく、機動実験を明日に控えております。それが終わり次第ですが、ほぼ完成と言っていいでしょう」

「おぉ!もう、そんなところまで来ていたのかね!?」

「はい、昨日のうちにほとんど仕上がりましたので」

「そうかそうか、うん、いや、すまなかった。すまなかった。では、後もつつがなく頼むよ」

「はい」

一礼すると、荒耶は踵を返した。

 

 

「荒耶先生!」

将校の部屋を出たところで、荒耶はよく知った声に呼び止められた。

体ごとそちらへ振り返る。

編まれた二振りのお下げが揺れているのが目に付いた。

軍服の上にわざわざ白衣を羽織っても彼女の体躯は小さく、まさか24歳だとは誰も思わないだろう。

「待ってください!」

呼び止められるまでもなく、荒耶は立ち止まり彼女を待っていた。

そう広くもない廊下をヨタヨタと小走りに彼女――小清水加奈軍医はこちらに向かってきている。

どうやら両脇に抱えている書類束が重いようで、思ったようなスピードで前に進めないらしい。

「はぁ・・・はぁ・・・・・・」

荒耶の前に彼女がたどり着いたときにはすでに相当消耗してしまっていた。牛乳瓶のような眼鏡も鼻先までズレ落ちている。

「・・・・・・大丈夫かね?」

「はぁ・・・・だい・・・ひょうぶ・・・・はぁ・・・で・・・・・・す」

とてもそうは見えないが、荒耶は黙って彼女が落ち着くのを待った。

待つこと数分、小清水が息を整えるのに要した時間である。ズリ落ちそうな眼鏡を掛けなおしながら、

「申し訳ありません。先生」

「気にしていない。それよりも何かね?小清水女史、慌てていたようだが・・・・・・」

「・・・・・・・・・え?」

小清水はキョトンとした顔でこちらを見上げてくる。特に用事はなかったらしい。

「まぁいい。研究塔に行くのかね?」

「え?あっ、はい。そうですね」

「私も向かおうとしていたところだ」

「あっ、では、ご一緒に―――」

「あぁ」

そっけなく答えると、荒耶は両手に抱えた書類の束を持って歩き出した。

「あっ、えーと?――あれ?」

背後では、書類束が無くなっている事に違和感を感じているらしい彼女がオタオタとしているようだった。

「私が、持っていたのがいつの間にか無くなっていて、荒耶先生がいつのまにか持っていてくださって、でも渡したような取られたような時間はなかったように・・・・っ先生!待ってください」

トタトタと駆け寄りながら小清水。

「すいません。それ、私の仕事ですのに」

「気にしていない」

「あぁ、でも、本当に申し訳ありません」

荒耶としては善意でもなんでもなく、効率を考えての行為であるのだが、彼女はひどく申し訳なさそうに言ってくる。

「先生に雑務なんてさせていては――」

「小清水くん。私は確かに士官扱いを受けてはいるが、一介の研究員とそう変わらない。特別扱いは不要だ」

実際のところ、荒耶は軍人でもなんでもない。ただ、軍の要請に従い、ある計画に協力しているだけなのだ。

それでも軍が気をつかってか、彼に士官級の待遇を約束してきたが正直、荒耶にとってはそんなものはどうでもいいことだった。

のだが、

「先生、そうは言いますが、あなたがいなければ私達が今回の計画を成功させることなどできなかったのです」

彼女はやや熱を持った声で言う。

「計画の要である先生を一介の研究員などとはとても私には思えません」

「・・・・・・」

彼女は熱を持ったまなざしを荒耶に向ける。そこには羨望や焦がれといったものがにじみ出ていた。

(たしか、24歳だったな・・・)

彼女は、小柄な体格や童顔のためにしばしば少女のように見えるが、どうやらそれは外見だけではないらしい。

荒耶がそんなことを考えているとは露知らず、なおも小清水は食い下がってきていた。

「――先生、ですから、お早く私にお戻しくださ――」

「小清水くん」

「――は、はい?」

「もう、研究塔だ」

荒耶はそういって、顎をしゃくって傍の窓をさした。

窓の外、やや離れた先には、研究所と書かれた看板を貼り付けた木造の建物が見えていた。

 

 

研究塔と呼ばれる研究所の外見はひどくボロボロで大きいという以外に目を引くような装飾は何もなかった。

ただそれは大きいだけというわけではなく、天に伸びる塔のような作りになっており、戦時下の日本ではまずお目にかかることはできない。まるで枯れた巨木が立っているようにさえ見えた。

ほとんど施設からはずれたところにあるとはいえ、軍施設内にこれほど巨大な建造物が作られることは珍しく――空襲の際に一番の標的になるため――しかも、戦闘機などの倉庫ではなく、研究所として機能しているところなど日本広しといえどここだけだろう。

荒耶と小清水は連れ立って扉の前にやってきていた。

だが、鍵穴や錠もなければ、ノブや取っ手といったものさえそこにはついておらず、端から見れば扉とはとても思えないようなつくりになっていた。

「それでは、御開けします」

「あぁ」

しかし、彼らはそのことがすでに当たり前になっている。

小清水は白衣に取り付けられたポケットから一枚の板を取り出した。

それを扉の前に掲げる、と、いかなる仕組みか板の表面が淡く光を帯びた。

「開門」

彼女がそう唱えると、光はさらにその強さを増した。それに呼応するように、扉が音もなく開きだす。

「いつも思うのですが、これはどういう仕組みなのですか?」

「初歩的な魔術だ。仕組みなどない。」

「はぁ・・・」

荒耶は端的に答えると、さっさと扉をくぐり中へと入っていた。慌てて小清水もその後を追う。

扉は彼女が入ると同時に閉まり始めて速やかに閉じきってしまうと、日光を完全に遮断してしまったが、研究所内はいたるところに設置されている電灯に魔力の光を灯すことによって明るさを保たれていた。

「魔術というものは便利なものですね」

光の充満した研究所の内部は、外見とはあまりにも違った内装になっていた。

壁には一面に鉄板が張り巡らせており、ところどころで光がチカチカと明滅していた。床には大小様々なコードが縦横無尽に散乱しており足の踏み場を探すのも一苦労である。

そして、その中央部には巨大な円錐状の塔のようなものがすえつけられていた。研究所といっても後は椅子と机があるだけで、主にその塔が屋内のほとんどを占めている。

「私は科学を信仰しておりますが、それでも荒耶先生からいただいた魔術という技術は科学をはるかに凌駕していますもの」

「科学も魔術もそう違いはない。今の科学よりも私の学んだ魔術の方が少し先にあるだけだ」

書類束を机に置きながら荒耶。

「魔術はたしかに禁忌の類ではあるが、奇跡ではない。常識では考えられんといっても、あくまでそれは今の常識だ。」

「今の、常識?」

「そもそも資金と時間に制約がなければ現代の技術で再現できるものを、我々は魔術と称しているだけなのだ。ゆえに、いずれ科学が魔術を越え、日常となる日もくるだろう」

「なるほど・・・」

彼女は荒耶の言葉に納得がいったようで、ウンウンと何度か頷きながら中央の塔へと近づいていった。

荒耶は椅子に腰掛けるとその塔を見上げた。

塔は、上方に捩れながら向かっており、まるで前衛彫刻のような作りだった。とはいっても、いたるところに電球やレバーなどのゴテゴテしたものが取り付けられており、その頂点には歪な球体が取り付けられ、芸術性は完全に損なわれているが。

それもそうだろう、これは兵器なのだから。

「戦術結界兵器、明日はついに機動実験ですね」

「あぁ」

戦術結界兵器イ號『鬼火』

そう名づけられたこの装置を完成させるために荒耶は軍に召集されていた。

「本当に、荒耶先生には感謝しております」

小清水は華奢なその指で、ゴツゴツとした装置の表面をなぞり、ある一点で止めた。荒耶の位置からでもそれはよく見える。

そこには大きなガラスがはめ込まれており、中では絶え間なく赤黒い液体が波打つように揺れていた。

「荒耶先生が私達にこれをもたらしてくださいました」

それこそがこの兵器の心臓部だった。

「金剛水、 たしかそんな名前でしたね」

「そんな大層なものではない。それに、機動までは完成とはいえないのだ。万が一の失敗はいくらでもある」

「先生、それはご謙遜に過ぎます」

唇を尖らせながら小清水。

「必ず成功します」

年齢に似合わず童女のような仕草を見せながら、彼女は体全体を使って憤りを表しているようだった。

東京帝國大学始まって以来の才人であると聞いているが、この仕草や見た目からはそういったことは想像もできない。

荒耶はそんな彼女を落ち着かせるように手をかざしながら、

「そうだな。君が言うのなら間違いなく成功するだろう。不吉なことをいってしまったな、すまない。どうにも私はここぞという時の運がないのだ」

「・・・・・・は?」

彼はきょとんとする小清水にゆっくりと話し出した。

「ふむ、私が運などと言う不確定なことを口にするのはおかしいかね?」

「あ・・・・・・いえ、その・・・・・・魔術というもの自体眉唾なものだと最初は思っておりましたし、荒耶先生に至っては、なんだこら、また男が私の仕事を奪いに来たのか胡散臭い野郎め――あぁ、いえ、違うんです」

ちなみに、荒耶の前任者はストレスにより胃を悪くして辞任したと聞いている。

「おほん、確かにそうです。魔術にしてもなんにしても理論的に説明される先生が、運が悪い、なんて不確定なことをおっしゃるとはおもいませんでした」

小清水は平静を取り戻すためか、眼鏡を何度か駆け直しながら答えてきた。

ばつが悪いときに眼鏡をいじるのは彼女のいつもの癖であることを荒耶は知っていた。彼にとってはあまり気にするところでもなかったのだが彼女にとっては失礼なことを言ってしまったと思ったらしい。

「はは、しかし本当なのだ。私は運の悪い男でね」

荒耶にしては珍しく、彼は声を出して笑い、そう口にした。

事実、彼の今までの人生はそういった運の無さの連続であった。彼の起こす行動は全て騒乱となり逆賊と処され、彼の与えた技術は天災によってことごとくを無にされてきた。

それら全てを、荒耶の運の無さで片付けるには余りに無理があることではあったが、しかしそうとしか考えられなかった。まさか天が彼の所業を阻んでいるなどということがあるわけがないのだから。

ただ、それをしょうがないで片付けられるほど荒耶宗蓮の願いは軽くはなかったのだ。

「小清水女史」

「・・・・・・はい」

「私は本当に運の悪い男だ。だから、今回は君に賭けた」

「?・・・・・・先生」

突然わからないことを言われたからだろう、小清水は戸惑っているようだが荒耶は構わず続けた。

「私は、金剛水とわずかな知識を与えただけに過ぎない」

しゃべりながら机に置いた書類の一枚を手にとる。そこには彼女が何度も何度も書き直したのであろう『鬼火』の設計図が描きこまれていた。

それは現在の科学の水準を大きく越えたものだった。

「君が発案し、君が形にしたものに少し足りなかったものを提供しただけ。私がやったことはそれだけだ」

「そのようなことは・・・・・・」

「本当のことだよ。さっきも言ったが私は運のない男だ。今回は君のこの計画の尻馬に乗せてもらったに過ぎない」

書類を机に戻しながら、荒耶は立ち上がった。

「だから、君が成功すると言うのならきっと成功するだろう」

彼が立ち上がると、小清水は少し困ったような顔を向けてきた。身長差のために見下ろしながら、そんな彼女に荒耶は言った

「私の願いは、人を救うこと、と前に言ったな」

「・・・・・・はい」

「そして、君もまた同じ思いでこの『鬼火』を作った」

「はい」

救世済民、小清水が目の前の装置を作る際に提唱した言葉だと荒耶は聞いている。この戦争の中、彼女は敵を倒すためではなく人を救うために動いたのだ。

「ならば、成功させねばならない」

「はい」

人を救うために彼は一人で戦い、一人で破れ、そして人を救えない日々を送ってきた。

だからこそ荒耶は思ったのだ。

他者と協力することで何かが変わるのかもしれないと。

「成功させましょう!」

「あぁ」

明日の機動実験を成功させるため、二人は最後の作業に取り掛かった。

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

真っ暗で広大な空間がある。

そこには一人の男と一つの天秤があった。

男は目を瞑り天地の無いその空間を漂っており、天秤は微動だにすることなく左右の均衡を保っている。

何時間も、何十時間も、何百何千という時間を男は目を瞑り、天秤はただ均衡を保っていた。

 

しかし、その天秤が今、ユラユラと揺れている。

カタン―――

そして、程なく、秤は左へと完全に傾いた。

 

「またか・・・・・・」

いつの間にか男は目を開いていた。

猛禽類のような獰猛な瞳は暗黒の空間の中で一際輝いて見える。

 

その天秤は、人の世にあるバランスの狂いを表す。

人は人の手によって滅びの道を目指す。

故に、この天秤はそれを事前に察知するため設えられた神代のシステムである。

人を滅ぼさないため。

そして―――

「全てを殲滅するとしよう」

 

一部の人を滅ぼすために。

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

夕日の差し込む橙の世界の中で、荒耶は一人の男と立ち会っていた。

相手は、美丈夫という言葉がよく似合う五分刈りの男だった。

日本人離れした長身。顔から足のつま先まで筋骨隆々でできた体躯。そして、それに似合わない端正に作られた顔立ち。

そんな男が、威丈高に吼えながら木刀を構えてこちらに突っ込んできていた。その様は大型の獣が獲物を仕留めるために接近しているようにも見える。

しかし、荒耶は慌てることなく左足を下げて待ち構えていた。

「かぁぁぁぁ!!!!」

舐めるなとばかりに一気に差を詰めた男は必殺の一撃とばかりに荒耶の脳天に向かって木刀を振り下ろした。

だが、木刀は直撃することなく、その直前で左にそれていた。振り下ろされた木刀の腹をすばやく弾いて横にいなしたのだ。

「ぐっ!」

その瞬間、男は苦悶の声を漏らした。

弾くと同時に、懐に入り込んで繰り出した荒耶の人差し指が、彼の鳩尾へ深々と突き立っていたのからだった。

「っぶ・・・ぐぅぅぅぅぅ!」

おそらくは相当な苦痛を感じているのだろうが、それでも男は攻勢を止めようとはしない。

握りこんでいる木刀の柄尻を荒耶のコメカミに向けて閃かせる。

タイミング的に腕で防ぐことも上体を反らすこともできない、男は苦悶の表情の中、それでも勝利を確信した笑みを浮かべた。

が、

「!」

荒耶はあえて向かい来る柄尻の方を振り向くと、その振り向いた反動を利用して額でその攻撃を受けていた。

ベキッと乾いた音を立てて柄の底が破砕する。

「!?・・・!」

男が失態の声を上げるより先に、

「勝負あり」

荒耶は彼の鼻をつまんでいた。

さきほど木刀を破砕させた額には傷はおろか打ち身のあとさえない。脳震盪の類さえ起こしていない荒耶は、相手の鼻をつまんだまま返事を待っていた。

鼻を摘めたということは目を潰すこともできたということであり、将棋の詰みのようなものだった。

「くそ、また負けか」

鼻を摘まれたままだったためか、男の声は鼻声になっている。

それを返事と受け取ったのか、荒耶は鼻から手を離しながら半歩離れた。

「今回は私も危なかった」

「五月蝿いぞ宗蓮。今日こそは貴様の連勝を止めるつもりであったのに!」

指突された鳩尾を擦りながら男は悔しそうに悪態をついた。

「大体、貴様木刀の柄を砕いて無傷とは、どれだけ石頭なのだ!」

いちいち男の声は大きかった。

「それに俺の面打ちをきれいに防ぎやがって、許せん!」

男――小清水耕也陸軍大佐は、端正な顔立ちに似合わないガキ大将のような傍若無人な物言いをしながら荒耶ににじり寄った。

長身同士で向かい合っている様は、一種異様な威圧を周囲に撒き散らしている。

そんなことは露知らず、彼はジロジロと荒耶のその厳しい顔をねめつけながら、

「褒美として俺の妹をくれてやるぞ」

まったく脈略もないことを言い放った。

ちなみに、彼らが立ち会っているのは小清水家の庭先でのことであり、耕也の声は非常に大きいため周りの人家にもよく響いた。

「どうだ!ちっと薹が立っとるし、器量よしとも言えんし、科学バカだが、ああ見えて安産型のでかい良い尻をしてるぞ!ん?」

「・・・・・・大佐」

「バンバン健康な子供を産めるぞ。ヌハハハハハハハハハ」

「・・・・・・大佐」

「ん?なんだ宗蓮」

「妹君だ」

荒耶は静かに耕也の背後の縁側を指差していた。

そこには、小清水加奈が無言で立ち尽くしている。

家に帰ってきているためだろう、彼女はいつもの軍服に白衣という出で立ちから藍色のワンピース姿になっており、普段は纏めている黒髪も解いていた。

ただ、眼鏡だけはいつものものを着用しているため、その表情を伺うことができなかった。明らかに怒っていることは確かであるが。

「・・・・・・・・・」

さっきまでの威勢はどこへやら、耕也は顔面を蒼白にして滝のような汗を流していた。

「兄さん・・・・・・」

それは普段の彼女の声と変わらないはずが、地獄の底から響いているように聞こえるのは何故だろうか。

「兄さん、ご近所迷惑ですよ」

声色こそ優しいが、加奈の背後から怒りのオーラのようなものが出ているのを荒耶はたしかに見た。あと、今から起こるであろう惨劇も。

耕也は恐る恐る背後を振り返りながら言った。

「おっ、おぉ、そうか加奈。少し声が大きかった、かな?」

「えぇ」

「・・・・・・」

軽くなるどころか、限りなく空気が重くなっていくのを荒耶は感じた。なんとなく、耕也から距離をとる。

それと同時に、顔の一部を痙攣させながら耕也は恐る恐るこう言った。

「尻がでかいことはわるいことではない――ブッ!」

すると、その顔に深々と旧式のラジオが突き刺さっていた。

もちろん、加奈が投擲したものである。

「・・・・・・・・デリカシーがないですよ。兄さん」

「イツツツ・・・・・・マテマテ妹よ。とにかく、その片手にあるもう錆びて捨てようと思っていた包丁をしまえ」

「え?」

「いや、だから、破傷風とか、な?」

「なにか?」

「・・・・・・・えーい!そんなだから、貴様は宗蓮とうまくいかんのだ!」

「先生を呼び捨てにしないで!!!!」

「ヌハハハハ、愛い奴よ愛い奴よ」

かくして、荒耶の目の前で壮絶な兄妹の殺し合いが始まった。

といっても、加奈が一方的にモノ(壊れたラジオや割れた皿などのいらないもの)を縁側から投げ、それを耕也が笑いながらかわし続けているだけなので、端から見ればじゃれあっているようにしか見えないが。

「アレの方がよっぽど近所迷惑というか、恥だよね」

と、背後からの声に荒耶は振り返った。

そこには小清水耕也を三回りほど小さくしたような男の子が竹刀を片手に呆れ顔で立っていた。

「ソーレンもうちの家族になるならよく考えてね」

「・・・・・・そもそも、そんな予定はないぞ。小清水洋太」

「えっ?そうなの?姉ちゃんはともかく、兄ちゃん本気だよ?」

「・・・・・・・まぁ、いい」

「えっ?いいの?」

「そういう意味ではない」

荒耶はその部分は一応即座に否定した。

小清水家の次男、小清水洋太は、なんだ、と少し残念そうな顔をして口を尖らせた。姿は小型の耕也だが、そういった仕草は加奈に似ていると思えた。

「まっいいや。ていかソーレン。兄ちゃんじゃなくて、僕にも稽古つけてよ」

「構わ――」

「もらったぁぁぁぁ!!!!」

返事を待たずに洋太は荒耶に踊りかかり、持っていた竹刀を振り下ろした。

奇襲としては悪くないものであったし、右肩を正確に狙った太刀筋はすばらしいものであったが、荒耶は打ち込まれた竹刀をいとも簡単に受け止めると、そのまま捻り上げてあっさりと奪い取り、

「へっ?――のぉ!」

そのまま、柄の部分で洋太を打ち据えた。

「奇襲の時に声を上げるのはいかんな」

「・・・・・・くそぅ、今日こそは一本取るつもりだったのに!」

「甘いぞぉ!ヨウ!」

いつの間にか、耕也が荒耶の横に立っていた。

その横には、ぜぇぜぇと荒い息をつく加奈の姿もある。

「日本男児たるもの勝ってなんぼ!奇襲はよし、されど失敗するは恥だ!」

そもそも日本男児の心構えとは、江戸から続く武士の心構えを基にしているという。

それは、まずどんな手段を使っても勝つこと、そして正々堂々と生きることである。今の世はどうしても後者が取り上げられることが多いが、勝ってなんぼという耕也の言い分は決して間違っているわけではない。

「うっせーなー。兄ちゃんなんかソーレンに勝ったことないじゃないか」

「しょうがなかろう。宗蓮は俺よりも10も上なのだ」

「それ理由になんなくない?」

「目上は敬うものなのだ」

「兄さん。まるでわざと負けてる風に言わないでもらえますか?」

「・・・・・・・・・ヌハハハハハハハハハ」

『笑ってごまかすな』

小清水家の三人ともがギャーギャーと喧嘩に近い形でコミュニケーションをとっているのを見るのが荒耶は好きだった。

今までの人生をほとんど孤独で生きてきた彼にとって、ここまで深く家族と交わるということは皆無だったから、その光景はとても新鮮に写るのだ。

「あー、もう、やめだやめだ。加奈。メシにするとしよう」

「姉ちゃん今日もすいとんか?」

「今日は荒耶先生が見えられたので、イワシも付けました」

いつの間にか三人は並んで庭から屋内へ戻ろうとしていた。

「先生もお早く」

加奈が振り返って言う。

「兄ちゃん兄ちゃん。姉ちゃんはなんでいつものもんぺじゃなくて母ちゃんの形見着てんだ?」

「ふふふ、恋する乙女心というやつよ」

「ご飯抜きにしますよー」

『ごめんなさい』

その光景は荒耶にとっては眩しすぎるもので、近づくことはなんだか拒まれた。

「おい、遠慮するなよ宗蓮。貴様を食わせる蓄えくらいちゃんとある」

今度は耕也が振り返りながらそう言った。

「あー、お腹すいた。ソーレン。早くきなよ」

それに洋太が続く。

「・・・・・・・・・そうだな。馳走になるとしよう」

荒耶は、いつもの厳しい顔を少し緩めて彼らの後について歩き出した。

それは非常に珍しいことだったが、斜陽によって遮られ小清水兄弟が見ることはできなかった。

 

 

夕食後、しつこく宿泊を勧められたが、荒耶は丁重に断った。そもそも泊まる気もなかったが、今日は久しぶりに寄りたいところがあった。

「では、そこまで送ろう」

小清水家は、市街の中心付近にあるボロい一軒家で、軍基地からも歩いて一時間以上かかるという不便なところにあったので、強引な耕也の申し出を断る理由もなく近くまでの送迎を頼んだ。

夏の夜空は満天に星がちりばめられ、昼間は煩いだけの蝉の声も飛び交う蛍と相まってなんともいえない風情をかもし出してくれる。

ここが軍都と呼ばれていようと、日本の夏は変わることはない。

しばらく特にお互いに話すこともなく歩き、街灯もなくなり田んぼの畦道が続く町外れの辺りまでやってきた頃、

「なぁ、宗蓮」

歩みを止めて耕也は口を開いた。

「お前、本気で俺の家族にならんか?」

「また妹をもらえというやつか?だったら断るぞ。前にも言ったが、これでも私は僧籍に属している身だからな」

実際には、僧籍に属していたというべきだろう。

荒耶宗蓮には、その昔台密の僧として全国を行脚し人に救いを説いて回っていたころがある。しかし、宗教では人を救済することはできないと気づいた彼は、神秘と信じた魔術へと傾倒していった。

「坊さんでも嫁さんいるのはいっぱいいるけどな・・・・・・いや、別に無理に貰えとは言わんさ。そんな形でなくても家族にはなれる」

頭を掻きながら耕也。

「今日みたいなのがいい例さ。なんとなく一緒に居てよ。みんなでわいわいやって、たまには喧嘩したりもするけどよ。なんだかんだ、最後は一緒に飯を食って笑ってよ」

「それが、家族か?」

「そうやってなってくのさ。いつの間にやら、家族に」

胸を張って語る耕也を見ながら荒耶はなんともいえない気分になった。

今までこんなことを荒耶に言う人間は居なかったからだ。

いつの時代も、畏れの対象でしかなかった彼に歩み寄るものは皆無だったし、そもそもそんなものはいらないと思っていたのだから当然といえば当然だろう。

(いや、今も必要とは思っていない・・・・・・)

それでも耕也の提案に耳を傾けているのだから、わずかばかりは心を揺さぶられているのかもしれないが。

「いい話なのだろうな」

「もちろんだ」

耕也はヌハハハといつものように豪快に笑い、真剣な目をこちらに向けてくる。その目が余りにも真剣すぎて、ごまかしたり流したりすることが荒耶にはできなかった。

「すまんが・・・」

「やはりダメか」

「・・・・・・・・」

荒耶の望みは、誰かを救うことではなく、あくまで人を救うことだった。

それは一個人に向けるべき感情ではない。

だからこそ、彼は自分から他者に歩み寄ることを良しとしなかった。自分にとっての大切なものなど作らなかった。

今回のような誰かに協力すること自体が異例中の異例なのだ。

「大佐、ここまででいい。失礼するぞ」

荒耶は、残念そうにしている耕也に一礼すると、彼を置いていく形で歩き出した。

「宗蓮!」

その背に、豪快な声が響く。

「魔術なんてな眉唾だと思っていたが、お前は本物だ!」

荒耶は振り向かずに歩みも止めなかったが、構わないのだろう、その声は一層大きさをまして行く。

「そして、いい男だ。なんに悩んでるか知らんが、お前なら大丈夫だ!」

彼は荒耶の苦悩の深さを知らない。絶望を知らない。悲嘆を知らない。

だが、不思議と荒耶は耳を傾けていた。

「加奈も洋太も、この国も、お前を頼りにしている。魔術を信じるわけではないぞ。お前を信じているんだ」

たかが、30年しか生きていない人間の言葉が、何故か荒耶の胸に熱く残った。

 

 

その夜、まず一度目の空襲警報が発令された。

 

 

荒耶は市街から大分離れたところにある草原に一人佇んでいた。

さきほど、市街の方から空襲警報が聞こえたが、大気を叩く戦闘機の音は特にせず気に留めることはしなかった。

「ここだったと思うが・・・・・・」

暗闇の中、星明りだけを頼りにしゃがみこんで手探りであたりを探す。

「む・・・」

五分とかからずに荒耶はそれを探り当てた。

すっかり古びて泥に塗れているが、それは頑丈に編まれた荒縄だった。

それを両手で掴みながら立ち上がり、力任せに引っ張ると、そう遠くない地面が割れた。

「仕掛は顕在か」

縄を放り投げると割れた地点に歩み寄る。

そこには地下へと続く階段が現われていた。

荒耶は躊躇することなくその階段を下り始める。階段を下りるたびにかび臭さが鼻をつく。

(大体百年ほど前か・・・・・・)

かつての自分に思いをはせる。

荒耶宗蓮は、かつて宗教によって人を救おうと全国を行脚した。

飢餓に、病魔に、戦に、弾圧に、さまざまな困難は人を死に追い遣り、そして争いを生んだ。

血なまぐさい戦場にも何度も足を運んだ。幸い、彼は突出した僧兵だったので、多くの人が彼によって死を免れてきた。

しかし、命を救っても、人は救えない。

宗教には限界があった。

だから、彼は教えを捨て、旅の中で出会った魔術師に師事した。

これで人を救うことができる。

当時の彼はそう信じて疑わなかった。

しかし、その幻想はあっさりと打ち砕かれた。

魔術師という人種はすべからく己のことにしか興味のない輩で、自分の研究を証明するために村を一つ滅ぼすと聞いた瞬間に、荒耶はその魔術師を縊り殺していた。

そして、魔術師の根城としていた工房を奪い、独学で魔術を学んだのである。

そこがここだった。

すでに階段は終わり、暗闇のため感覚でしかわからないが広い空間がそこには広がっている。

おもむろに指を鳴らすと、それに反応するように天井のいたるところが淡く光、工房の全体が姿を現した。

「・・・百年ぶりか」

二十畳ほどの室内には、手術台や試験管、たくさんの積み上げられた書物など、極めて乱雑に物が散らばっていた。そして、その全てにもれなく埃が積もっている。

ここが魔術師荒耶宗蓮のルーツだった。

とはいえ、彼は感傷に浸るためにここに来たわけではない。

明日――もう今日であるが、機動実験が万が一失敗したときのためになんとかできそうなものを探しにきたのだ。

「たしか、使えそうな魔術書があったはずだが・・・」

まず足元に落ちていた埃塗れの書物を拾い上げた。

 

 

時間は少し戻り、小清水家では空襲警報に従い、庭先に作っていた防空壕に次男を非難させていた。

「ふぁ・・・・・・兄ちゃん眠い」

「穴の中で寝ていろ。俺と加奈は基地に一端戻る」

「えぇ・・・・・・僕一人?」

「ごめんね洋太。明け方までに何もなかったら私達も帰ってくるから」

「んー、わかった」

いつもはどこか大人ぶっている弟も眠気には勝てないようで年相応の態度しか取れないようだった。

加奈は、非常食をリュックに詰めて洋太に持たせると防空頭巾を渡して穴の中に押し入れた。防空壕の中は意外と広く、子供一人なら横になることもできるほどの広さになっている。

蒸し暑いかも知れないが、家屋に残しておくわけにもいかない。

「ヨウ!」

加奈が防空壕の扉を閉めようとしたときに、耕也は弟に声をかけた。

「お前も立派な小清水家の男だ。家を頼んだぞ」

「うん・・・」

目をこすりながら洋太。

「よし、では行くか」

「えぇ・・・じゃあ、洋太行ってくるね」

そう言って、今度こそ、加奈は防空壕の扉を閉めた。

 

軍服に身を包んだ小清水兄妹が軍司令部についたのはそれから一時間ほどのことだった。

時刻は深夜3時ほどになっている。

送迎の自動四輪から降りた二人が門兵に敬礼したとき、二度目の空襲警報が鳴り響いた。

「敵機か!?」

敬礼をすぐに解くと耕也が怒鳴りつけるように門兵の一人に言った。

若い兵士は、上級士官の剣幕にやや驚きを見せながらも、

「いっ、一度目は引き返して行ったようですが、今回は私では分かりかねます」

「そうか!わかった!夜間の警護ご苦労!」

「いえ!大佐殿こそ、深夜にわざわざすみません!」

門兵にねぎらいの言葉をかけると、耕也は加奈の方を振り返った

「小清水伍長」

「はい、なんでしょう大佐」

彼女は軍医でありながら伍長の階級位を持っていた。

「貴様は今から研究塔を確認後、医務室に待機しろ。万が一空爆があった際に備えろ」

「わかりました」

「頼むぞ!」

「はい!」

駆け出す妹を見送り、再度、さきほどの門兵に向き直る。

「豪原閣下はどうされた?」

「すでに作戦室にいらっしゃいます」

「わかった。では俺も――」

「なんだ、あれ?」

どこか間抜けな声を上げたのは、もう一人の門兵である。

耕也もつられて視線の先を追った。

そこには、何もない。

基地から零れる光で真っ暗というわけではないが、何もないことだけは把握できる。

何もないではないか、耕也がそう言おうとした瞬間、バチン、と何もない空間に青白い雷光のようなものが走った。

ギョッ、として身構える。

「大佐殿、下がってください」

すばやく彼の前に先ほどの門兵が回りこむ。

そうこうしているうちにも目の前の怪現象は激しさを増しており、雷光はバチバチとその頻度を増していく。

そして、どこで臨界を越えたのか、一際強く輝いた瞬間――

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

男の脳髄に知識が流れ込む。

それは召喚される先のさまざまな知識である。

しかし、一晩で全てを殲滅する彼にとっては必要とは思えない。それこそ、なんの理性もないケダモノであればどれほどいいことか。

それでも、それは一つのルールだった。

ルールの上に存在する彼にとって、必要不必要を口にしたとしてもそれが認められることはない。

太陽が毎日東から昇るように、男もまた不変のシステムとなっていた。

知識が全て流れ込むと、次に男の体全体から放電が始まる。

バチバチと雷光がほとばしるたびに、男の一部分が消失していく。

召喚は速やかに迅速に行われ始めた。

次々と男の体はこの空間から消失して行く。

「さぁ、世界を救いに行くか」

その声には皮肉以外の何も込められていなかったが。

パチン、と一際大きな放電があったと思うと、男は完全に消え去っていた。

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

かくして、何もなかった空間に一人の男が現出した。

彼の目的は二つ。

目の前にある軍施設の破壊と、このあたり一帯に居る人間すべての抹殺である。

 

 

 

「何者だ!?」

一瞬の強い光の後に、突然現われた男に向かい門兵が詰問に似た叫び声を上げる。

暗闇を全て照らすほどには基地の光量は多くなく、その姿を正確に把握することは出来なかったが、目と鼻の先に何者かが現われたことには間違いなかった。

まず、門兵の一人が抜刀し、剣先を突きつけながら近づいていく。

「返事をせんか!」

高圧的な口調を続けながら一歩一歩慎重に門兵は男へと向かっていく。

と――

急に門兵は歩みを止めた。

「どうし――」

耕也がいぶかしんで声をかけようとしたが、それよりも先に彼は後方に飛び退り腰の剣帯から軍刀を一気に引き抜いていた。

それと同時に、男に歩み寄っていた門兵と、彼の前に居た門兵とが一斉に倒れ、地面を血で染める。

「ほう、なかなかいい勘をしているな」

しゃべったのは、さきほど突然出現した男だった。

いつの間に移動したのか、倒れた門兵の傍らにしゃがみこみ、その命を絶った刀剣を引き抜いている。

「貴様・・・・・・なんだ!?」

耕也は異常な状況に、相手にどんな言葉を投げかけていいかわからず、とにかく叫んだ。

基地内にわずかに近づいたからだろう、今度は男の全体像がはっきりと見てとれる。

赤い外套、まずはそれが一番印象に残る。次に白髪(銀髪にも見えなくはないが)と猛禽類を思わせる鋭い眼光が輝いている。

耕也ほどか、はたまたそれ以上か、上背も相当のものである。

男は両手に一本ずつ刀剣(よく見れば短剣だった)を持って構えると、律儀に答えてきた。

「ただの殺し屋だ」

そして、こちらに向かってなんの躊躇もなく突進してくる。

こちらが反応さえできないとでも思っているのか堂々と真正面から。

「舐めるな!」

向かい来る相手に耕也は軍刀を振り下ろした。男の短剣ではこちらの軍刀が届く範囲は、まだまだ間合いの範囲にない。

反撃が来る前に一撃で仕留めるつもりだった。

(短剣で受け止めたとしても――)

耕也の膂力を持ってすれば、剣一本では受け止め切れず、二本で受けたとしても押さえ込んでしまえば動きをとめることができる。その自信はあった。

また、横に身をかわすというような回避行動を取るには勢いがつきすぎて今更無理なことも分かる。

「もらった!」

放った斬撃が男の頭を真っ二つに割ると耕也は確信しきっていたが、

「いや」

男の冷静な否定の声が脳裏に響くとともに、勢いよく振り下ろした刀は、そのまま何の手応えもなく目の前の男を通り抜けた。

そして、無傷の男は悠々と耕也の懐に飛び込んでくる。

「!」

衝撃は同時だった。

振り下ろした軍刀が半ばからへし折れているのを目にした衝撃と、胸に短剣をつきたてられた衝撃とは。

「・・・・・・・ガハッ!」

血を吐き出しながら、それでも耕也は反撃を試みようとしたが体にはほとんど力が入らずに倒れこんだ。

皮肉にも、刺された部分は夕刻に荒耶に指突された部分だった。

(抜かった!初めからこれが狙いだったか!)

心中で自分の甘さを呪う。

耕也にはまったく見えなかったが、男は片方の短剣で軍刀を切断したのだろう。そして、そのままもう片方の短剣で耕也の胸を突き刺したのだ。

「ハッ・・・・ハァッ・・・・・・・・・」

「ほう、まだ息があるか、頑丈だな」

仰向けに倒れ大量の血を流すこちらを見下ろしながら男は言った。

東洋人のようだったが、その肌は浅黒かった。

「将校、大佐か・・・」

どうやら、首元の階級章を確認したらしい。

「苦しいだろう。すぐに止めを刺してやる」

短剣を振りかぶる相手に、余計なことを、と耕也は思ったがもう口を動かす力もない。

せめて、その顔を焼き付けようと男の顔を凝視する。

まだ年若い男はなんの感情も表さない顔をしているが、それは怒っているような悲しんでいるような憎んでいるような苦悩しているような、なんとも複雑な表情を押し隠した仮面に見えた。

すると、

(・・・・・・宗蓮?)

何故か、男の顔が友人の顔とだぶる。

何もかも、似ているところなど何一つなかったのに。

だが、耕也がそれを深く考える時間はなかった。

男の短剣が静かに振り下ろされたからだ。

 

 

突然の魔力の放流を感じて、荒耶は慌てて地下の研究所から飛び出した。

外に出ると、さきほどと変わらぬ静かな草原があるだけだった。

しかし、

(おかしい――)

虫が一匹も鳴いていない、荒耶を言い知れぬ不安が胸を突いた。

先ほどとは明らかに世界が変質しているのを肌で感じる。

(どうする?)

市街に戻るか、軍施設に向かうか。

少なくとも何かが起こっているのは確かだった。

と、西の空から何かが飛来する。

クゥゥゥ、とそれは鳴きながら、荒耶の元へと降り立った。

「ハの四号」

それは体長二メートルほどの巨大な大鷲の姿をした、荒耶の使い魔だった。

荒耶は軍施設内に何かあった際のために、さまざまな使い魔の素をおいている。

そして、この大鷲、ハの四号が来たと言う事は、

「緊急事態か」

何か大きな問題が軍施設に起こっている。

荒耶の脳裏に、今までに起こってきた不可解ともいえる己の運の悪さが一瞬閃いた。

頭を振り、悪い考えを振り祓おうとする。

すると、バサバサと大きく翼を羽ばたかせて大鷲は飛び上がった。

「どちらにせよ」

口の中に苦いものを感じたが、それを飲み下しながら大鷲の足を掴んだ。

クアァァァァ、大鷲は一声鳴くと軽々と宙を舞った。

「急げ」

ここからならば、半刻もせずにつくことができるだろうが、胸騒ぎはすでに突き刺すような傷みへと変わっていた。

 

 

軍施設内は、怒号、悲鳴、銃声と、喧騒に満ち満ちていた。

小清水加奈は、研究塔から出た途端のこの状況に自体が飲み込めずおろおろとするしかできなかった。

「えと、兄さんは医務室にって言ってたけど・・・」

今動くのはひどく危ないような気がして研究塔から離れられないで居る。

と、

「小清水くん!」

見知った人影が近づいてくる。

「豪原閣下?」

どうしたらそれだけ肥えれるのか――いつも加奈は疑問に思っていたが――ズングリとした体をヨタヨタとさせながら、豪原実兼中将が姿を現した。

ここまで走ってきたのか汗だくでふぅふぅ息をしている。

正直、あまり好きな人物ではないがひとまず見知った人が来てくれて安心できた。

「何が?」

「賊だ。もしかしたら、ここを狙っておるのかもしれん」

「情報が漏れていたのでしょうか?」

不安そうに加奈。

「わからん!しかし、一人で攻め込んできて――」

「ぎゃっ!」

近くで悲鳴が聞こえて豪原の声は遮られた。

「ぬぅ、もうこんな所まで」

「閣下、兄は?兄はこの中でも一番剣術に長けております。兄なら」

「・・・・・・・・・」

「閣下!?」

「あっ、うむ、そうであるな。こちらに来て護るようにきちんと指示はしてあるから安心せい」

何かを躊躇したそぶりを一瞬見せたが、豪原は己の持った軍刀を構えなおしながら言った。

「加奈くん。中に入りアレを守りたまえ」

「えっ?」

「ワシは君の兄上と荒耶くんがここに来るまで敵を引き止めておく。塔の中に入りしっかりとアレを守りきるんだ」

「でも、私・・・・・・」

「小清水伍長!」

突然威圧され、加奈は竦みあがった。

「自分の役目を果たしなさい。荒耶くんには彼の使い魔とやらを放った。すぐにここに来てくれる」

豪原の目は今まで見たこともないような真剣さだ。

加奈はただ頷くしか出来なかった。

「よし、では、行け」

せかすように背中を押されて研究塔の扉をくぐる。

くぐったと同時に、扉は静かに閉まり始めた。

その隙間から、

「閣下、ご無事で」

「うむ」

頷く豪原はこちらを安心させるためか、顔全体の肉を使ってブサイクに笑って見せた。

 

 

鷲は思ったよりもずっと速く目的地へ荒耶を連れ帰った。

「・・・・・・」

上空から見た限りでは軍施設は特に何も変わった様相はなかった。

警備兵が巡回している姿も特に焦っているようには見えない。

しかし、それであれば使い魔を放った理由がどこにもなくなってしまう。

(これはまやかしだ)

上空で、荒耶は使い魔の足から手を離した。

20メートルはあろう上空から勢いよく降下する。

そして、残り5メートルほどのところで荒耶を違和感が襲った。

着地と同時にうめく。

「やはり、結界だったな」

彼はその感覚を何度か経験したことがあった。別世界に突如足を踏み込んだかのような不確かな違和感の正体がそれだ。

結界とは本来、外と内の間に境界を張ることで内を異界へと変質させるというものだが、今回は視覚と聴覚を騙すために使っていたようで、入ることは容易だった。

「くっ・・・・・・」

結界の中はひどい有様だった。

施設内はところどころから火の手が上がっており、爆発も起こり、人であったものがいたるところに散らばり死臭が立ち込め始めている。

「皆殺しか・・・・・・」

荒耶が降り立ったところは施設の入り口だったようで、そこからすでに死体が転がっていた。

「奇襲だな・・・・・・」

急く気持ちを抑えながら、転がっている死体を確認する。全て鋭利な刃物によってほぼ一撃で殺されていた。

二人目も同じ、胸元に突き刺された後が見えた。

どちらも名前は知らないが知った顔だ。

そして、

「大佐・・・・・・」

三人目の死体を確認して声が漏れる。

そこには、小清水耕也が悔しげな相貌を残したまま死んでいた。

おそらく一撃では死ななかったのだろう。心臓を突き直した後がある。

「お前ほどの者も容易く殺す者か」

荒耶は手合わせにおいて一度も耕也に遅れを取ったことはない。

それでも、彼がただの賊に殺されるような軟い腕前でないことも知っている。

さきほどの結界からしても、賊は魔術師に違いない。

ならば、己以外に対処などできようはずがないのだ。

「私は、また間に合わなかったのだな」

苦々しいものを噛み潰すように言うと、荒耶は軍施設を向いた。

まだ阿鼻叫喚は聞こえる。そして、入り口の向こうにも大量の死体が転がっている。

「耕也、約束しよう。これ以上は殺させん」

ボソリとつぶやくと、荒耶は施設内へと駆け出した。

 

 

研究塔内で、加奈は一人おびえながらも『鬼火』の整備を一心に行っていた。

もちろん、少しでも気を紛らわしたかったこともあるが、

(これを動かせば賊を退けられるかも)

起動どころか、そのまま稼動してしまおうというのだ。

この戦術結界兵器は、名前こそ兵器という名を付けたが実際は兵器と呼べるようなものではなかった。

加奈の構想どおりにこの機械が作動すれば、半径数キロに結界と呼ばれる障壁を張り巡らすことができ、さらに味方は自在に出入りでき、敵と判断されたものを結界外にはじき出すことが出来る。

特に殺傷能力もなければ、弾かれたその敵に何か害をなすようなこともしない。

ただ完全な安全地帯を作ることが目的で『鬼火』は作られていた。

(兄さんたちががんばっているんだ。私もがんばらないと)

スイッチを入れ、金剛水の流動を大きくする。

それにあわせるように各部に備えられたボンベやらパイプやらが勢いよく稼動し始めた。

ガタガタと軽く全身を鳴動をさせながら、円錐状の塔全体がわずかずつ発光していく。

後は目の前のレバーを引くだけだ、加奈は目の前のレバーに手をかけた瞬間、背後の扉が突然爆発した。

「えっ!?――きゃあ!」

爆発とともに外気が強い熱波となって彼女を襲う。

「うぁ・・・・・・・・・」

勢いよく吹き飛ばされそうになったが、幸い目の前の『鬼火』に思い切り叩きつけられただけだった。それでも、一瞬意識が飛びそうになったので唇を思い切りかみ締めた。

(痛ッ……)

唇から一筋の赤い血の糸が垂れる。

加奈はチカチカとする視界の中でなんとか吹き飛ばされた扉の方を見やった。

扉の向こうは炎の壁が出来ていた。そして、それを背に一人の長身の男が立っている。

「これか・・・」

男は『鬼火』を見上げると赤い外套を翻した。

加奈にはそういう風にしか見えなかったが、外套が翻ったのは彼女を殺すために短剣を投擲したためだ。

そのことに気づいたのは、彼女の目と鼻の先でその短剣が音もなく停止したからだった。

「……っ?」

綺麗な装飾が施されているその黒い短剣を不可視の何かが阻んでいる。

突然の状況だったが、加奈はすぐに理解した。

結界が作動しているのだ。

「なに?」

これには男も驚きの声を上げる。

「―――」

加奈も声を上げたかったが、肺が縮こまってうまく息が漏れず、発音ができなかった。

短剣は不可視の障壁を突き破ることができず、そのまま力を失い床に落ちた。ギィィン、と甲高い音が上がる。

「面倒な。完成させたのか」

苦々しく男がうめく声が聞こえる。

その声に、加奈は歓喜の声を上げそうになった。

さきほどの爆風は自分を吹き飛ばしはしたが、彼女が動かそうとしていたレバーも弾みで動かしてしまったらしい。

(やりました!先生!!)

声はいまだに出せないが、心の中で叫ぶ。

上方を見やると、円錐の頂点にある歪んだ丸い玉が発光していた。

間違いなく作動している証拠だ。

加奈は2〜3度、大きく息をして、

「これ、で、あなたは・・・・・・近づけない」

なんとか切れ切れの声を出しながら、『鬼火』に寄りかかる。

そして、ヨロヨロとなんとか『鬼火』を支えにしながら右側に移動し始める。

加奈が見たところ、結界はわずか3メートルほどしか展開していない。

主力を上げて広げる必要があった。

(・・・確か、右端に・・・主力の・・・・・・)

朦朧とする頭で『鬼火』の全容を思い浮かべる。

右のレバーを引き上げれば、今度こそを賊を追い出せるほどの規模で結界が展開できるはずだった。

移動しながらチラリと賊を見やる。

男は、さきほどの短剣を回収しながら、何故かこちらを追いかける形でゆっくりと移動していた。

しかし、男の行動を思慮する余裕は加奈にはなかった。這うように歩きながらなんとか目的を果たそうと前進する。

すぐに主力レバーは見つかった。安堵とともにレバーに手をかける。

「女、安心するのはまだ早いぞ」

声をかけてきたのは、或いはそれは、賊の優しさだったのかもしれない。

「?」

レバーにもたれ掛かりながら男に目を向け、加奈はギョッとした。

男はもう移動していなかった。立ち止まり、掲げた右腕の周りにキラキラと光ものが舞っている。

「強度は判った。これは防げん」

キラキラと光ものは幾十本もの剣だった。

それら一本一本に並々ならぬ凄みを感じて、加奈は声にならない悲鳴を上げた。彼女にはわからなかったが、どの剣にも強力な魔力が込められている。

男は躊躇も感慨も何も示さない表情で、無慈悲に腕を振り下ろす。

それとともに、『鬼火』と加奈に向かって、何本もの剣が殺到した。

 

 

研究塔へ向かう途中に倒れていた全ての人間が殺されていた。

チラと見ただけだが、そのほとんどが鋭利な刃物で切り殺されるか突き殺されている。

(魔術師が剣術だと?)

疑問には思ったが、そのことを深く考えても居られない。荒耶はひたすらに研究塔を目指した。

(すまない)

ただ、前に進みながらその言葉を心の中で唱える。

彼らは軍人だ。死ぬこともまた覚悟していた者ばかりだろうが、それでも自分が居れば救えたかもしれないという想いが、荒耶に重くのしかかった。

彼の厳しい顔は、進むにつれさらに険しいものとなっていった。

最短のルートを進むために、また顔見知りの死体を踏み越え、ようやっと荒耶の視界に研究塔が入った途端、

「ぬっ!?」

研究塔を炎が包み込み、入り口の扉が勢いよく爆発した。

(魔術の炎)

風にあおられることもなく煌々と燃え立つ火炎を一目見て、荒耶はその炎が魔術を帯びていることを感じた。

間に合わなかった、という思いが腹の底を冷やす。

(くっ・・・・・・)

それでも足を速め、ついに燃え上がる研究塔の前に立った。

開け放たれた扉の前を炎の壁が遮っていたが、荒耶は躊躇なく飛び込もうとして、その傍にうずくまっていた小山ほどの巨漢が目についた

「・・・豪原中将閣下!?」

そこにはこの駐屯所の最高責任者、豪原がうずくまるように横たわっていた。驚くことに彼は生きていた。

(生きている?・・・・・・)

豪原の恰幅のよかった腹は無惨に引き裂かれており臓物を撒き散らし、最早死ぬのを待つのみの状態だった。

しかし、

「荒耶くん・・・・・・頼む」

豪原は声を漏らしていた。

それはか細かったし、聞き取れるわけもなかったが、それでも荒耶には聞こえた。

「戦術・・・結界兵器『鬼火』・・・あれ・・・・・・・だけは護って・・・・・・くれたまえ」

口を開けば自慢しか出てこなかった男から思いもかけない言葉が漏れていた。

「・・・・・・あれは・・・この国の・・・・・・明日を・・・・・・」

喉の奥からどす黒い血を吐き出しながら死に行く男は必死にこの国を憂いているようだった。

「・・・・・・頼む・・・・・・」

それっきり声は聞こえなくなった。

豪原が死んだからかもしれないし、荒耶が炎に飛び込んだからかもしれない。

 

「ぬぅぅぅぅぅぅ!」

炎に焼かれながら、荒耶は研究塔内への侵入に成功した。

魔術の炎は体のあちこちを勢いよく燃やしているが、そんなことには意に介さず瞬時に状況を確認する。

ボロボロの小清水加奈。見知らぬ赤い外套の男。『鬼火』の作動。小清水と『鬼火』に襲いかかろうとしている何か。

「ちぃ!」

舌打ちとともに小清水加奈の方に駆け出す。

『鬼火』が作動しているのは、おそらく小清水が動かしたのだろう。

絶対不可侵の領域を作る結界兵器は、一度発動してしまえば外敵の侵入を決して許さない。そういう風に設計はしているが、それはあくまで現代科学の兵器、たとえば焼夷弾などを防げる程度のものだ。

『鬼火』に力なく寄り添っている小清水加奈に、今まさに降りかかろうとしている無数の流星のような何かは、その一つ一つが『鬼火』では防ぎきれない強力無比な力であることを察知できた。

荒耶は、内に蓄えた魔力を練り上げていく。

(間に合わす!)

人を救う。

しかし、多くが死んだ。

それでも、人を救う。

いくらでも悲劇はそこかしこで起こる。

それでも、人を救う。

個人さえ救えない、ならば全体も救えないのではないか。

(やかましい!)

さまざまな想いがまるで走馬灯のように、小清水へ駆け寄る数瞬の間駆け巡った。

床を蹴って飛び込む。

その際に、目の端に入った流星のような煌きは数十本にも及ぶ剣だと分かる。

その全てが『鬼火』の結界など容易く破壊してしまうほどの魔力を秘めている剣だった。そして、事実、すでに結界を突き破っていた。

もう剣と加奈の距離は二メートルもなかったが、荒耶は間一髪、その間に割って入ることができた。

おそらく間に合ったのは奇跡だろう。

しかし、その奇跡に感謝している暇などない。急ぎ小清水を抱きかかえ、飛び来る剣に背を向けながら叫んだ。

「不倶!」

それは彼の唯一扱うことのできる魔術、結界の名だ。

叫ぶと同時に荒耶の背を中心に空間が歪み、『鬼火』とはまた別の不可視の壁が出現する。何本もの剣が、その壁に阻まれて止まっていた。

しかし、荒耶の結界では守りきれない円錐の塔には何本もの剣が突き刺さっていく。

小清水と荒耶が心血を注いで作った兵器はあっさりと破壊され始めたが、それに失意を感じている暇などなかった。

一瞬でも気を抜けば彼の背中越しで止まっている数本の剣が彼の結界さえ突き破りかねない。

荒耶は脂汗を流しながら、腕の中の加奈を見た。

彼女は荒耶の顔を確認できたからか幾分柔らかい顔をしていたが、全身ズタボロで完全に疲弊しきっていた。特に、唇を何度も噛んだのかひどくボロボロになっている。

「無茶をしたな。小清水女史」

「・・・・・・・・・」

荒耶の声は少し厳しいものだったが、それでもいつもの荒耶宗蓮だと彼女は思ったのか口の端を少し動かして笑う。

「しかし、君の勇気に敬意を」

「!・・・・・・」

これにはやや驚いたらしい目を丸くして見せた。

「私は、その勇気に報いる」

言い終わるか終わらないうちに、荒耶は一気に振り返ると眼前で止まっている剣群を腕を振るって蹴散らした。

彼の結界に縫いとめられた数多の剣が全て床に叩きつけられる。

しかし、状況が好転したわけではない。

「ぬっ!?」

弾いた剣の後からさらに新たな剣が飛び来る。

形の異なる一本一本の剣全てに大きな魔力が込められているが、それでも荒耶の結界の強度を打ち破ることはできなかった。

際限なく向かい来る剣を結界で縫いとめながら、荒耶は眼前の男を凝視する。

男は怒りの面を向けたまま、右腕を掲げたままの姿勢を崩すことなく、間断なく剣を出現させ撃ち出していた。

その全てを結界で縫いとめ、徒手によって排除し続けながら荒耶は男の力量を測った。

(強力な魔術師だな)

少なくとも自分よりも数段上の実力を持っている、それは間違いなかった。

そもそも、荒耶宗蓮は魔術師としては穴だらけで平凡でしかない。

これが魔術勝負であれば勝ち目などなかっただろうと荒耶は冷静に計算する。

それでも、相手の攻撃がこちらに届かないのは、彼がこの結界という魔術式のみを長い年月をかけて昇華させてきたからに他ならない。

そんな歪な魔術師の自分に勝機があるとすれば、

(強力であればあるほど、魔術師は敗北を知らぬ)

超越者とは、勝つことが当たり前であり、負けることなど想像もしない。

(勝機はそこにある)

剣群を次々と退けながら、荒耶は一瞬の勝機を待った。

剣の群れは、いまや荒耶のみを狙っていた。

『鬼火』への攻撃がなくなった分、前、横、上、三方向から絶え間なく剣が飛び来る。

荒耶の結界は平面にも立体にも展開されておりその全ての侵入を阻んでいた。

が、

「ぬぅ!?」

荒耶の驚きの声が響く。

頭上の剣群の一本だけが結界を破って中に飛び込んできたのだ。

剣は速度を落とすことなく正確な動きで荒耶の眉間へと吸い込まれていく。

「っ!!!?」

背後で小清水が声にならない悲鳴をあげているのを感じながら、荒耶は眼前の男を盗み見た。刹那の瞬間しか見ることができなかったが、たしかに掲げていた腕は下ろされており、その周りには新たな剣は一本もなかった。

男はすでに追撃をやめている。

(勝ちを確信したからだ!)

そう推測すると、荒耶は顎を上げ、胸をわずかに反らした。

これによって、眉間から剣先がわずかにはずれる。とはいえ、それで回避できたわけではない。

「くそっ――」

荒耶の苦渋の声を遮るガキンという音とともに、剣はそのまま顔面に命中し突き立った。その反動で一歩後退する。

「きゃぁぁ!!!」

背後の小清水が甲高い悲鳴を上げる。串刺しなど見れるものでも無いのでしかたないことではあるが。

「うそ!?先生!?先生!!?」

満身創痍で意識を保つだけでやっとであったはずの彼女が叫び声を上げた。半狂乱になりながらこちらへと叫び続ける。

だが、荒耶はそれに答えてやることはできない。立ったまま絶命した風を装う必要があったからだ。

(機は今!)

命中したかに見えた剣は、彼の肉を幾らかえぐりながらも、強靭な顎と歯によって受け止められていた。

剣を結界内に侵入させたことも、驚いてやられて見せたことも全てはこの一瞬の隙を作るためだった。

加奈も、眼前の男も気づいていない。

荒耶は、すばやく口の中の血とともに――歯で受け止めた際に口の端と舌は切り裂かれていた――剣を吐き出すと、空中でその剣を蹴り放った。

「!」

男が反応を示したがすでにもう遅い。

(遅い)

荒耶の蹴った剣は、結界が縫いとめていた数本の剣群を破壊しながらすでに男の間近に迫っていた。反撃の警戒をしていなかった男に防ぐ手立てはもうない。

(勝っ――)

次の瞬間には、剣が男の胸に深々と突き刺さっているはずだったが、

「なっ!?」

荒耶は思わず声を出していた。

剣は男の眼前で止まっていた。

「白刃取りだと?」

そう、男は右腕で、剣先を摘んで受け止めていた。

尋常ならざる膂力と握力、何よりも己の力に慢心している魔術師にはそんな芸当はできない。

魔術師であればどんな状態でも魔術で片付けようとする。

今のような場合、なんとか魔術によって窮地を凌ごうとする結果、間に合わずに致命傷を負うのだ。

だが、男は己の肉体のみを使って回避した。

それは荒耶の知る限り、もっとも最適な手段だった。

「先生ご無事だったんですね!?」

背後から加奈の安堵の声が聞こえるがそれにかかずらわっている余裕は荒耶にはなかった。

強力な魔術師でありながら、眼前の男は魔術以外にも依る術を持っている。

それはつまり、荒耶のわずかにあった勝機が尽きたことを意味する。

荒耶は知らなかったのだ。

歪な魔術師が己以外にもいるということを。

 

 

◆    ◆     ◆

 

 

――I am the bone of my sword――

その強さは才能によるものではなく、自分の持っているものをただひたすらに鍛え上げたもの。

――Steel is my body,and fire is my blood――

唯一の体と、唯一の魔術のみを糧に己を鍛え続けた。

――I have created over a thousand blades――

望みは唯一つ、全ての人を救うこと。

――Unknown to Death――

何百という戦場を駆け、何千という人々を救ってきた。

――Nor known to Life――

それでも全てを救うことなどできなかった。

――Have withstood pain to create many weapons――

望みが叶ったことなど一つもない。

――Yet,those hands will never hold anything――

それでも、全てを救うのだと、必ずできることだと、突き進み続けた。

――So as I pray,unlimited blade works

だが、その先にあったものはただの絶望だけだった。

 

 

◆    ◆     ◆

 

 

男は受け止めた剣を消滅させた。剣は造り出すことも消すことも自在に可能なのだろう。

それと同時に荒耶の結界に縫いとめられていた剣群も消滅させる。

「!?」

男の行動の真意が読めず、荒耶は警戒を強めた。

魔術師の驕りから生まれる隙を突くという戦術が難しくなった以上、その一挙手一投足には今まで以上に注意しなければならない。

だが、男はその場を動こうとせず、こちらに向かってしゃべり出した。

「いらん知恵を与えたのは貴様だな?」

その声には確かな憤怒があった。

「私の投影の剣をこれだけ弾き、なお反撃さえしてみせる。並の魔術師ではない」

勝手に言っていろ、と心中で毒づきながら、しかしなぜ相手が声をかけてきたのかをできるだけ冷静に分析しようとする。

男は腕組をするとこちらをねめつけるだけで、一向に攻撃を再開しようとはしない。

(何が狙いだ?)

荒耶は慎重に男の出方を見る。

幸いかどうかはわからないが、『鬼火』はまだ結界を維持している。おそらく数十本の剣が突き刺さっているだろうに、まだ作動を続けていた。

(爆発などしないのだから、幸いといえば幸いだな)

と、思い直した折、男がしゃべりだした。

「なぜ、こんなものを?」

「?」

荒耶は一瞬、質問の意味がわからなかった。

わからずに、男の顔を見返すと、彼の視線が背後の『鬼火』に向けられていると気づく。

「人を助けるためです!」

「女史?」

答えたのは加奈だった。背後を振り向くことはできなかったが、荒耶の肩に掴まりながらどうやら身を起こそうとしているようだ。

「これさえ、完成すれば、多くの人が救えたのに!」

そう言いながら、加奈は涙をこぼしているようだった。見てはいないが、感じる。

だが、嗚咽するよりも彼女は諍うすることを選んだようだ。

再び背後から声が聞こえる。

「全て、うまく、行っていたのに!なんなんです。貴方は!」

その強い口調は彼女の兄を思い出させる。

なんにせよ、加奈がしゃべってくれることはありがたかった。もちろん、目の前の男が何故こんな時間を設けているのかは甚だ疑問だったが、それでも、この時間を使ってわずかなりと体内の魔力を高めれる。

(もう少し時間がいる。女史の質問に答えるか?)

そうそう自分の思うとおりに相手は動いてくれないとは思ったが、どうやら男はさきほどの加奈の質問に答えるようだった。

「私はただの殺し屋だ………いや、掃除屋と言うべきかな」

掃除屋、その単語が荒耶の頭に残る。

男はそのまま続けて言った。

「まぁ、私のことはどうでもいい。とりあえず、お前達が度し難い愚か者だということがわかったしな」

「!?」

背後で息を飲む気配がした。

男の発言に加奈が激昂しているらしい。

しかし、それは目の前の男も同じようだった。

「軽々しくそんなことを思っていたとは!」

さきほど荒耶に向けられていた怒りをそのまま加奈にも向けながら、男の静かな激怒は魔力となってにじみ出る。

「不倶!」

叫んだのはもちろん荒耶である。

「金剛!」

尋常ではない魔力の放流を受けて、咄嗟に練っていた魔力を限界まで使って結界を張りなおす。

「蛇蝎!」

「救えるものなら救ってみるがいい」

荒耶の前に三枚の障壁結界が張り付けられたのとほぼ同時に、男が右腕を掲げていた。

その瞬間、男の渦巻いていた魔力がその一点に集中していくのがわかる。

「!」

集中した魔力が形を成していくのを荒耶は見た。

それと同時に、少し前に男が言った投影という言葉を思い出す。

投影魔術、グラディエーション・エア。

それは自己のイメージからそれに沿ったオリジナルの鏡像を魔力によって複製する魔術だったと記憶している。

ならば、先ほどの剣群は全て男のイメージから生まれた模倣の剣である。

(模倣でありながらあの威力か)

剣群の威力を苦々しく思い出す。

男は完全に投影魔術を使いこなしているのが伺えた。そして、今男の右手に集まっている魔力はさきほどの比ではない。

(最大威力の一撃が来る)

誰も殺させない、少し前に耕也に誓った言葉をかみ締める。

(とはいえ、すでに多くが殺されてしまったが)

せめて、背後の小清水加奈だけは守り通す覚悟を決めながら、前方をきつく睨みすえた。

男はすでに魔術を完成させているようだった。掲げた右手に一本の剣が握られている。

(剣?)

男の握るそれは剣であることには違いなかったが、それでも荒耶は一瞬我が目を疑った。それは剣と呼ぶには無骨に過ぎる。

研究塔の天井を目掛けて突き上げられた二メートルはあろうかという巨大さと、ゴツゴツとした荒削りの表面。

巨石を削りだして作り出したかのような石の剣がそこにはあった。

「ヘラクレスの神殿より削り出された神から賜わりし斧剣」

男の言葉を信じるなら、その剣は神の時代から存在する神石の化石である。つまり、この世にあるはずのない剣。

「この一撃で終わらせる」

男は、柄に両腕を添える。

「貴様らのような愚か者は――」

大上段に構え、

「――理想を抱いて溺死しろ」

無慈悲に、その超弩級の石剣を一気に振り下ろした。

(速い)

男の細腕に果たしてどれほどの膂力が宿っているのか、振り下ろされる斬撃は荒耶のよく知る小清水耕也の太刀筋より鋭く、そして速い。

容易く『鬼火』の結界を突き破りながら、二人に向かって打ち落とされた斬撃は――斬撃というよりは押しつぶそうとしているようにしか見えないのだが――背後の『鬼火』自体を両断しながら突き進んでくる。

「っ!?」

背後から加奈の息を飲む気配を感じる。

『鬼火』の破壊に心を痛めているのは明白だ。

「私たちの……夢が」

「女史!頭を下げていろ!」

放心してしまうのではないかと思って荒耶は叫んだ。背後を振り返る余裕はない。振り下ろされた剣はもう眼前まで迫っているのだから。

襲い来るものが、ただ巨大なだけの石であれば荒耶の結界はびくともしないだろうが、それは神代より造られた神の石。たとえ模倣品であっても、その魔力は巨大すぎる。

間近で見るとそのことがより一層理解できた。

(今のままでは防げぬ!)

土壇場でそう判断すると、荒耶は眼前に展開していた三つの結界を左腕のみに集中させ、

「不倶!金剛!蛇蝎!」

再度結界の名を叫びながら、向かい来る石剣に合わせるように突き出した。

その剣が神の創ったものであれば、彼の左腕には、釈迦如来の骨『仏舎利』が埋め込まれている。

次の瞬間――神と仏が激突した。

「ぬぅぅぅぅぅぅぅぅ!」

曲がりなりにも仏の加護を持ったその腕に三つの結界を集中させることでさらに強度を増したとはいえ、それでも荒耶の左腕には感じたことのない重量が圧し掛かかり、ベキベキと骨の砕ける音を立てた。

神の石剣の前に荒耶の仏の腕はあっさり破壊されていた。

しかし、

「……小癪な」

意外にも声を漏らしたのは絶対優位のはずの外套の男だった。

荒耶は左腕の砕ける音を響かせながらも、なんとか剣を止めていたのだ。

「かぁぁぁぁぁぁ!」

「おぉぉぉぉぉ!」

男二人の絶叫のような雄叫びのような声が重なる。

意外な展開だったのか男も裂ぱくの気合を吐き出している。

その瞬間、

「!?」

あまりの重量に荒耶の腕よりも先に足場の床が砕けた。

「くっ!」

わずかに体が沈んだ瞬間、一つ目の結界不倶が破られる。

残り二つが破られるのも、このままでは時間の問題でしかない。

(反撃?できるか?)

己に自問する。

しかし、折れた左腕を支えるために右腕は使っており、両足は床の下で身動きができない。何か一つでも動かせば加奈もろとも剣に押しつぶされるだろう。

(おのれ!)

状況は絶望的だった。

このままではいずれ結界が破られる。

だが、反撃の糸口は見えない。

(敗北か)

その味は知っている。

今までの彼の人生は敗北の連続だった。

望みが叶ったことはない。

つまり、人を救えたことがない。

(すまん)

その謝罪は、死んだ耕也にか、助けられそうにない加奈にか、一人残される洋太にか、それとも、この基地内で殺された軍人達にか、それとも、今から救うはずだった人々にか、それともその全てにか。

荒耶が誰に向けたかわからない謝罪を口にしようとした、まさにそのとき、

「先生!」

突然、後方から、彼の左腕に手が添えられた。

「!?」

「気を確かに!」

もちろん、加奈の手だったのだが荒耶は一瞬わからなかった。

加奈は必死に叫んでいる。

「私がこの腕を支えます。ですから!」

その声に荒耶は我に返ると、横目で添えられた加奈の腕を見やる。その腕は血でボロボロだった。そして、小刻みに震えている。

(私は何を考えた!)

恥じ入っている暇などないが、諦めかけていた己を叱責する。

「小清水女史」

「はい」

「私の左腕を頼む!」

「任せてください」

右腕をゆっくりと左腕から離す。

実際、加奈の支えなどたいした意味などなかったが、左腕は剣の圧力に屈することなく未だそこに在る。

(まだ――保つ)

そのまま、剣の先にいる男を見やる。

猛禽類のような鋭い眼光がこちらを睨みつけていた。

その顔面に向かい、荒耶は右腕を突き出した。

向こうも必死なのかなんの反応も見せない。

左腕のほうでは、結界がまた一つ砕けたようだった。

「ぬぅぅぅぅぅ!!」

呻きながら、しかし、右腕に残りのわずかな魔力を集中させる。

(ゆっくりと、焦らず、しかし迅速に、速やかに)

念じながら右の手のひらに魔力が凝縮していく。

一点に、一箇所に、極めて密度の高い魔力の塊ができつつあった。

「!?」

男の表情がわずかに変わったのが見える。こちらの動きに気づいたらしい。

しかし、今度こそ、その時にはもう遅かった。

「王顕!」

叫びとともに、右手に凝縮された力を男に向けて解き放つ。

それもまた結界だった。

弾丸のように凝縮した小さな異界は、何者をも貫く強度を持っている。

それが今、男の頭部に向かって、やはり弾丸のような速さで打ち出された。さきほどの剣よりも確実に速い。

「小癪な!」

男は叫んで、掴んでいた柄から左手だけを放す。向かい来る結界弾を防ぐためだろう、その左手にはいつの間にか黒い短剣が握られていた。

その短剣を振り下ろす。

バキン、と鈍い音を立てて短剣は結界弾に寸分たがわず命中した。

しかし――

「なっ!?」

男の驚愕の声。それとともに、短剣は砕け、その頭部からは血が噴出していた。

短剣を砕いた結界弾は男の眉間の少し上に命中していた。

「………」

男は、もう何も言葉を発せなかったようだった。白目を向いて崩れ落ちる。

それとともに、荒耶の左腕にあった重量が消える。

あれほど存在感を露にしていた石剣が跡形もなく消えていた。

「ぁ……」

加奈も手を離したようで、荒耶は折れた左腕を力なく下ろした。その腕に、もはや感覚はまったくなかった。

投影魔術は、イメージに綻びができると存在強度を失い霧散するという。剣がきえたということは男が完全に死んだことを現していた。

知識の奥からその情報を引っ張り出して、ようやっと荒耶は安堵の吐息を漏らす。男が死んだためだろう、研究塔を包んでいた炎の壁もどうやら消えているようだった。

「はぁ……」

背後から気の抜けたような声がする。

そこで、荒耶はやっと背後を振り返った。

血と埃に塗れた小清水加奈がへたり込んでいる。

「荒耶先生、終わったんですか?」

「あぁ……頭を砕かれて死なない人間を私は知らない」

彼の師事した魔術師でさえ、首を折られただけで死んだのだ。脳をやられれば間違いなく死んだだろう。

「イタタタタタタ……」

その言葉に本当の意味で安堵したのだろう、全身の痛みが思い出されたのか、彼女は情けない声を漏らす。

その様を見ながら、荒耶は折れて感覚のない左腕を見やる。

あの巨大な剣を受け止められ続けたのは、彼女のか細い腕があったればこそのような気がした。

(私は、彼女に救われたのか?)

救うつもりが、救われたのだろうか。

ポロポロと涙を流しながら痛みを訴える加奈を見るが、彼女の何が自分を救ったのかはわからない。

しかし、自分が諦めることを拒否できたのは間違いなくこの力のない彼女のおかげだったと思う。

「小清水女史」

「痛……はい?」

呼ばれて童女のようなあどけない顔を向けた。荒耶は今気づいたが彼女は眼鏡を付けていなかった。いつの間にかはずれてしまったのだろう。

「君のおかげで助かった」

言いながら、陥没した床から脚を抜いて彼女に向き直ると、動く右腕を彼女に差し出す。

加奈は言葉の意味が一瞬わからなかったようだが、すぐに顔を赤くして首を振った。

「いえ、あの……先生のお役に立てたのなら光栄です」

そう言いながら荒耶の手を取ろうと中空を加奈の手が動く。

「兄さんも、無事だといいんですが」

「……」

我知らず押し黙る。

(今は話すべきではあるまい)

すぐに知れることではあるが、荒耶は今、耕也の死を話すべきではないと考えた。

彼女は眼鏡がないためか、まだこちらの差し出した手を捜しあぐねている。

荒耶は無言で少し加奈に近づくと、自分から彼女の手を掴まえる。

「……え?」

すると、不思議そうな声が加奈から漏れた。

しかし、それは手をつかまれたからではなく、

「!?」

いつの間にか、加奈の右胸に深々と剣が突き立っていたからだった。

黒い短剣。

さきほど、殺したはずの男が持っていた――そしてさきほど砕けたはずの――剣が突き立っている。

その光景に、荒耶の瞳が見開かれ、その瞳の中で、力なく加奈が崩れ落ちようとしていた。

慌てて抱きかかえようとさきほど掴んでいた彼女の腕を力任せに引き寄せる。

「小清……!?」

しかし、荒耶もなぜかバランスを崩し彼女を抱きかかえる形で床に腰を落とした。

「!?」

そこでようやく気づく。

彼の左腕は二の腕から切断されていた。

「な――にっ!?」

足元に斬り飛ばされた腕が転がっている。

おそらく、加奈の胸に刺さっている短剣が、彼女に命中する前に荒耶の片腕を斬り飛ばしていたのだろう。

「小清水女史!」

今は我が身などどうでもよかった。

残った右腕で自分の胸で息を引き取ろうとして加奈を揺する。

「……先生…」

ショック状態を起こしているのか、彼女は微笑んでいた。

いや、死を覚悟しただけかもしれない。

「兄さんと……洋太を、お願い」

「何を言う!」

右腕で急激に力を失っていくその体を激しく揺らす。

「先生……」

「しっかりしろ!」

「先生も……どうか…生きて」

「小清水!」

「………」

小清水加奈はそれっきり動かなくなった。

全ての人を救いたい、そう言っていた彼女が最後に口にしたのは身近なものの安否だった。だが、それが悪いこととは思わない。

「君は人のことばかりだな」

最早もの言わぬ加奈に話しかける。

耕也との誓いはここに破られた。

己の無力が許せなかった。そして、この元凶を作った男も。

「もういいか……」

背後から、さきほど殺したはずの男の声が聞こえてくる。いや、小清水加奈を殺した男か。

その何事もなかったかのような声色が荒耶の心をさらにかき乱す。

それでも、荒耶はゆっくりと立ち上がると、物言わぬ彼女を床に寝かせることを優先した。

男が襲ってこないのが不思議だったが、彼女の胸に刺さった剣を抜いてやりたかったのであえて気にしなかった。

黒い短剣を引き抜くと、男に向き直りながらそれを横に放る。

剣は甲高い音を立てて床に転がった。

「化け物の類か」

頭を打ちぬかれてなお生きている人間はいない。

それでも生きているのなら、それは人間ではない。

睨み据える先にいる男は両手を広げながら小馬鹿にしたような態度を取っていた。

たしかに打ち抜いたはずの額はまだ赤い血の跡があるが、すでに固まり乾き始めている。つまり、傷口はふさがっているということだ。

「私は一言で言えば救世主だ」

「殺し屋で、掃除屋で、次は救世主か。ふざけているのか化け物」

「いいや……まぁ、頃合だ」

頼んでもいないのに男は何事かを語り始めるようだった。

荒耶は今すぐにでも目の前の男を八つ裂きにしたかったが、それでも冷静に思いとどまり、男の言葉に耳を傾ける。

(魔力は残りわずかだ)

魔力とは魔術師にとってガソリンのようなもの。神秘を起こすための原動力。

それが限りなく空に近い今、荒耶の勝ち目は全くなくなったということである。

だが、諦めたわけではない。

(仇は討つ)

男から片時も目を離さず、二の腕から先のない左腕の止血に掛かる。

「私はここで多くを殺す。そして、貴様らの計画を綺麗に掃除してなかったことにするつもりだ」

まさに殺し屋にして掃除屋だろう、と男は付け加える。どうやらこちらの行動に特に頓着していないようで話を続けた。

「その結果、30億人ほどを救う救世主となる」

「?」

「わからないか?」

こちらの怪訝そうな顔に男は嘲るような笑みを作った。そして、こちらを指差す。

荒耶はそれにあわせるように静かに片足を引き、迎撃に備える。

だが、男からはこちらに向けて言葉のみが続けられた。

「貴様も魔術師なら抑止力を知っているだろう?」

抑止力、その単語で荒耶が連想したものは星の意思ガイアの怪物である。

星を存続させるために、その要因に対して絶対的な殺戮破壊の権利を持った星の意思と言われる白い狼の大化け物――プライミッツ・マーダー。

しかし、男が何故そんなことを言い出したのかはまったく分からなかった。

「ガイアの化け物のことだろう。貴様を化け物と呼称したからか?」

「いやいや、それは星の守護者だ」

やれやれと男は首を振った。

「星のためならば人などどうなっても構わない、そんな奴と一緒にされたくはないな。言ったろう、救世主と」

「だから何が言いたいのだ」

「貴様本当に魔術士か?私はカウンターガーディアンだと言っているのだぞ?」

「カウンターガーディアン、だと?それは人の世を守る守護者のことだろう。貴様、これだけの人間を殺して何の世迷言だ!」

「世迷言でもなんでもあるまい。私は人の世を守るためにここに来た。貴様らが世界を滅ぼそうとするからな」

「何を言って――」

荒耶はそこであることに気づいて、絶句する。

「得心がいったか?魔術師。そうだ。貴様らが作ろうとしていた、そして、貴様の背後でガラクタとなったその機械が元で、近い将来、人の世は甚大な被害を受ける」

「………」

「お前らがそれをするわけではないだろうがな。おかしな話だ。その女の話だと、その機械は全人類を救うものだったのだろう?」

ばかばかしい、というように男は鼻を鳴らした。

たしかに、「鬼火」はただ広域に結界を張るというだけで、それで人々を救えるわけではない。小清水は、まずは日本全体を結界で覆い外敵の侵略を防ぎ、時間をかけて全世界へとこの技術を伝えることによって武力行使を無意味なものにしようとしていたのだが、それで人が救えるわけでもない。

しかし、彼女は言った。

(せっかく、人は言葉という強い力を人は持って生まれました。戦争も話し合いの場所さえあれば、武器や兵器が無力なものであれば、もっともっと言葉は意味を持つとおもうんです)

まずはそこから始めたい。

戦地を渡り歩きながら、人を救うことに尽力していた荒耶に、何をしてもどうしても結局は人を救えない荒耶に、絶望の淵にいた荒耶に彼女はそう言った。

もちろん、そんなものは甘っちょろい戯言であることなど彼は気づいていた。

これは戦争なのだ。

空襲などの脅威がなくなれば、それを好機に日本は今まで以上に攻勢に出るだろう。

結局、どこかで必ず血は流れ、人は救われぬまま死ぬ。

救いなどどこにもない。

それでも、

「それでも、限界を感じた私には救いだった」

人間は生き汚い、そんな当たり前のことはわかっていた。

しかし、救うことは無意味ではないと彼が信じ続けられたのは、小清水家のような人々がいたからだ。

決して美しくはない。

だが、己が救うと決めたのは、生き汚い人間が尊かったからだ。

決して美しいから、間違わないから、すばらしかったから救いたかったわけではない。

ただ、懸命に生きる人々が、尊かったからだ。

彼らはそれを思い出させてくれた。

「貴様の言っていること、嘘とは思えん」

「嘘などつかんさ。人は人によって殺される。だから抑止力が必要なのだ」

男の肯定を受けて、荒耶は深く息を吸い、言葉とともに吐き出した。

「それでも、我々のやっていたことを否定する権利などない」

「なんでもいいさ。現在も過去も、私は多数を救うために少数を殺すだけだ」

さきほど以上の剣郡が、男の周りに瞬時に展開された。

それを受けて、荒耶は失くした左腕を後ろに引き、半身に構えながら右拳を眼前に突き出す。

「小僧、命に少ないも多いもない。」

「そうかね」

「今も昔も、私は目の前の人を救うために生きるだけだ」

「………愚かだな」

呪詛に満ちた言葉とともに、荒耶へと剣の群れが殺到した。

 

 

雨のように剣が降る。

荒耶はそれを避け、あるいは弾き、なんとか致命傷だけを負わないように、半刻以上防戦に徹していた。

それでも、傷は増えていく。彼の羽織った白衣はすでに朱に染まり、吸い切れない血液がボタボタと落ち、動くたびに辺りに血が舞い散った。

「貴様こそ化け物だな」

感心したような、呆れたような男の声。

「失血死していなければならない量の血を失って、まだ動くか」

無限とも思えるほど、剣の雨はやむことはない。

(まだだ――)

飛んできた一本の剣を掴み、飛び来る他の剣をなぎ払う。

(もう少し)

砕いた剣の破片に切り裂かれながら一歩を踏み出す。それと同時にまた血が飛び散った。

「くっ!」

「がんばるものだな」

「がぁぁぁあぁぁぁ!」

間髪を入れずに飛んでくる剣の群れを弾き飛ばす。

結界を作る魔力が底を尽きかけている荒耶はそれを己の体のみで行っていた。

「さっきも言ったが、本当に化け物のようだよ。君」

「あぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

剣とは別に男の声が飛んでくる。

その口調はこの場に似つかわしくないほど落ち着いていて、こちらを小馬鹿にしたようなものだったが、それにいちいち腹を立てている場合ではない。

荒耶は魔力を使わぬように極力慎重に剣の群れを片付けていっていた。

しかし、

「ならば、これならどうだ」

「!?」

その声とともに彼へ向けられていた剣が、向きを変える。

その先には、

「まぁ、もう死骸だし関係ないか」

小清水加奈の遺体。

「貴様ぁぁぁぁぁぁ!!!!」

持っていた剣をかなぐり捨てて、剣の向かう先に疾駆する。

(間に合わん!)

さきほども同じような場面があったが、その時とは状況が違う。

いまの荒耶には魔力もなければ、満身創痍の体では瞬発力も落ちている。

次の瞬間には、小清水加奈の遺体は無残な肉塊になってしまっただろう。

が、

「安心したまえ」

加奈に到達する直前、剣郡は再度その向きを反転させていた。

「!?」

もちろん、荒耶へと――

「ぬぅ!」

急制動をかけるが、間に合わない。

体制を崩したままの荒耶へ、剣の群れが殺到し、次々と剣が彼の体に突き立つ。

「がはっ!」

血を撒き散らしながら、剣山のようにその身を串刺しにされてドウと荒耶は床に倒れ付した。

とめどなく流れる血が床を染めていく。

「さすがに死んだだろう」

冷たい男の声がそこに投げかけられる。

たしかに、雌雄は決した。

荒耶にはまだ息があったが口を開くことも起き上がることもできない。

対して、対峙する男は無傷であり、魔力もまだ十分に持っていた。

この時点で、どちらが優位であるかは誰の目から見ても明らかだった。

 

――私の勝ちだ。

 

二人の魔術師の戦いは、こうして決着がついたのだ。

 

 

「な………に?」

残りの仕事を済まそうと、赤い外套の魔術師がその場を去ろうとして驚きの声を上げた。

視界が歪んだと思った瞬間、立ちくらみのように床に膝をついていたのだ。

「なんだ?」

立ち上がろうと膝に力を入れるが、逆にバランスを崩して顔面から床に倒れこむ。荒耶の血で染まった床は彼の頬を朱に染めた。

すぐに立ち上がろうとするが、言いようのない虚脱感と不快感がない交ぜになり、立ち上がることができない。

「これは、なんだ?」

なんとか四つんばいの姿勢を保ちながらあたりを見回すが、ボケて歪んだ視界にはさっきと変わらないものが移るだけだった。

荒れ果てた研究所と、完全に壊れた機械と、血まみれの床と、死体が一つ。

(一つ?)

研究員の死体は一つしかなかった。

さきほど串刺しにした男の死体が消えている。

「馬鹿な……」

頭を振って少しでも視界を回復させようとするが、一向に治る様子はなかった。

逆に不快感はより大きなものになっている。

「私は、抑止力。私は、守護者。私は、この今において絶対無敵の執行者のはず」

「慢心だな」

「!?」

声のした方を向く。

そこに、さきほど倒したはずの男が立っていた。はっきりとは見えなかったが。

「貴様、何をした」

こみ上げてくる吐き気を抑えながら、守護者は、勝ったはずの、倒したはずの、死んだはずの男に声をかける。

張り上げるだけの力はでなかった。

「簡単だ」

対して、荒耶は淡々としたものだった。

「魔術師の体液は高密度の魔力塊だ。知っているだろう?」

「………貴様」

「撒き散らした血を使って、私は最後の結界を敷いた」

そもそも、彼の血を培養することによってできたものが鬼火の中核にあった金剛水である。これによって荒耶の持つ結界の一つ、金剛を簡易化した障壁を機械で展開することができていたのだ。

長い年月を結界師として生きたためか、荒耶の血はそれだけで強力な魔除けになっている。

そんな血が、さきほどの戦闘で、研究所全体の床に余すことなく行きわたっていた。

「これが私の最後の力。六道結界だ」

「くっ」

「無駄だ」

守護者は先ほどのように剣を投影しようと試みたようだが、わずかに空間を歪ませただけで何も起こりはしなかった。

「ここは私の結界。つまり私の腹の中だ」

「……」

「いかに貴様が強力な魔術師であろうとも、守護者であろうとも、ここで力を行使することはできない」

荒耶の確信に満ちた声は、しかし、絶対的な真実だった。

男は魔力も体力も十分にあるはずだが、さきほどからそれをうまく制御できていない。

もがけばもがくだけ、醜態をさらすだけだった。

「ふふ……」

「?」

しかし、それでも守護者は不敵に笑ってみせる。

「……しかし、それは貴様も同じようなものではないのか」

「……」

「図星か?そうだろうな。死なないまでもあれは致命傷だったはずだ。しゃべれているのも、立っていられるのも、この結界のおかげなのだろう?」

「……」

「結界から出れば貴様は死ぬ」

ズルリ、と這うように男は床を掻いた。ズル、ベシャ、と血の海を泳ぐように、それでも少しずつ男の体が前進する。

「そして、貴様は動けない。結界の維持で立っているのがやっとだろう?私がこの結界を出ることは阻めん」

守護者の言い分は、まさにその通りだった。

荒耶の臓器の被害は甚大でもうほとんど機能していなかった。なんとか生命維持や声が出せているのはこの結界の中にいるからであり、ここから一歩でも出たり、結界が解ければ瞬く間に彼の肉体は死に瀕するだろう。

そして、今の弱っている守護者を止められる体力さえ残っていなかった――結界の効果でわずかずつ回復はしているが、それでも逃走には間に合わないだろう。

動けない荒耶を尻目に、ズルリズルリと這いずりながら男は出口へと向かった。

守護者は、深まる不快感や虚脱感をかみ殺すように歯を食いしばりながら這いずっていた。

(ここから出れば、私の勝ちだ)

外よりも内に影響を与える結界は、内から外へ出ることに関しては容易にできていることを彼は知っていた。

(あと、少し――)

守護者は必死に血の海を這いずる。

彼を阻むものなどいないはずだったのだが、

「あきらめろ。守護者。すでに雌雄は決したのだ」

「黙れ。貴様は、そこで立ち尽くしていろ。私は、守護者。人類を救う義務がある」

「傲慢な、慢心だ」

「なんと言われようとかまわん。私は――!」

あと数歩で結界の外というところで、突然、右頬に強い衝撃を受けて男は横殴りに倒れた。

「っ!?」

今度こそ、わけのわからない事態に守護者が絶句する。

「貴様には何もさせん」

「っ――がぁ!」

声のする方を振り返ろうとして、右目に何かが突き入れられた激痛にうめき声をもらす。頭蓋の奥でぶちゅりと眼球が破れた音が確かに聞こえた。

(何が――)

荒耶の声はさきほどのところから動いていない。

(誰が、私の邪魔をしてい――!?)

再びの激痛に思考が停止する。

(右耳を引きちぎられ――!?)

何者かの手によって、彼の耳は無残に引きちぎられ、間髪いれずに耳の穴に何かが突き入れられ、鼓膜を突き破り三半規管や蝸牛神経が破壊された。

悲鳴を上げる暇もなく、彼の顔面部分は次々と破壊されていった。

「くっ!」

わけもわからず、両腕を振って攻撃してくるものを振り落とそうともがく。

そのときに、残った左目の視界がそれを捕らえた。

「これ……は――」

確認できたのは一瞬だった。それは勢いよくこちらに飛んでくると、彼の首を掴み万力のような力で締め上げ始める。

「こ…れ……は……」

両腕で掴み、引き離そうとするが一向に離れる様子はない。さらに力は強まっていくようだった。

「…!……!!……!」

「そうだ――」

しゃべれない彼に変わり、荒耶が口を開く。

「貴様が先刻切り落とした。私の左腕だよ」

「………!………」

「その左腕には御仏の加護があってな。私の魔力とはまた別で独立して動かすことができる」

守護者の首からボキボキと頚椎が折れていく音が聞こえ、ゴボゴボと口から血の泡が吹き出していた。

荒耶の左腕に添えられていた腕も徐々に力を失っていく。

そして、ほどなく、完全に力が抜け男は動かなくなった。

「安心しろ守護者。貴様はこれくらいで死んでもまた蘇るのだろう?」

「…………」

事切れた男の死骸を見つめながら、淡々と荒耶は続けた。

「いつまでも何度でも付き合ってやる」

彼がそういう間にも、守護者の体は傷を負った部分から次々と再生していっていた。

「何時間でも、何日でも何週間でも、貴様がこれ以上人を殺すというのなら、何度でも貴様を殺し続けてやる」

グシャリと、荒耶の左腕が、守護者の頭を砕いた。

 

 

ゴキッ!グシャ!メキッ!ボキッ!ボリ!バリ!ギィ!ザギッ!ボゴ!グチャ!メギギ!ッイィイ!ザク!ザグ!ベキキ!―――

 

気づけば研究所の外に光が差し始めていた。

男を殺し始めてからおよそ三時間。ある程度内臓が回復した荒耶は、左腕を自身に付け直し、いまは守護者に馬乗りになって拳を打ち付けていた。

何度砕いても何度壊しても、守護者は数瞬で回復する。

数え切れないほど殺したが、数え切れないほど蘇る。

まるで終わることのない輪にはまってしまったかのように殺し続け、生き返り続けていた。

不毛すぎる悲惨な輪だった。

しかし、こうし続けていなければ、守護者と名乗るこの男は自分を含めさらに大勢の人間を殺して回る。

それは阻止しなければならなかった。

だから荒耶は一切なんの躊躇も見せなかったし、油断もなかった。

 

 

それからさらに一刻――

 

 

「まじゅ――つ師―」

「?」

殺し始めてから、初めて守護者はこちらに声をかけてきた。

しかし、荒耶は、その声に耳を貸しながらも再生した頭を無感動に砕く。

数瞬して、蘇生を始めた頭に再度拳を打ち込む。

「聞――け」

こちらを油断させるつもりか、そう思いながら破壊を続ける。

「抑止―力――」

守護者もまた、殺害され再生するとともに断片的に言葉を紡いでいった。

「は――退―け」

「……」

「退け――たとし」

「……」

「ても…防――い」

「……」

「――だとして――も……」

「……」

「それより――」

「……」

「強―力――な」

「……」

「――力を―」

「……」

「持って、やってくる……」

「……なんだと?」

破壊されながらも断片的だった守護者の言葉が、荒耶の頭の中で繋がっていた。

(抑止力は、退け、防いだとしても、それより強力な力を――)

自然と、荒耶は拳を止めた。

「……より強力な力、だと?」

「あぁ、そして私はすでに敗れた……見ろ」

「!?」

気づけば馬乗りにしていた男の体が透け始めていた。

「まさか、私を退けるとはな」

「待て!貴様が消えれば終わりではないのか!」

荒耶への賞賛とともに消えて行く男に向かって彼は怒鳴りつけたが、守護者はまったく変わらない口調のまま、

「終わりではない。より強い力を持って、掃除が行われる」

「……」

「もうそこまで来ているぞ」

「―――!」

まさにその言葉を待っていたかのように、突然、研究所の壁の隙間から朝日よりもさらにまばゆい光が飛び込んできて、荒耶の右顔面を焼いた。

「っ!?――ガッ!」

あまりの事態に、荒耶は苦悶の声を上げて右顔面を押さえ、それとほぼ同時に、熱を持った突風が研究所もろとも、そこにあるすべてを根こそぎ吹き飛ばしていた。

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

原子爆弾、リトルボーイ。

そのたった一発の爆弾は、広島の高度約600メートル上空で爆発し、一瞬で全てを破壊した。

死者は9万人から16万人にも及ぶという。

 

 

次に荒耶が見たものは果ての無いような焼け野原だった。

 

死が満ちている。

焦土と化した町は人の焼ける臭いで満ちていた。

荒耶のよく知った道はズタズタに砕け、並んでいた建物はことごとく倒壊している。

そしてところどころに人であったものが転がっていた。

一瞬の強烈な熱線は、人体の水分をほとんど飛ばし、人間を完全に炭化させていた。

もちろん、炭化を免れた死体もある。しかし、皮膚は完全にめくれ上がり、筋繊維をむき出しにした化け物のような様をさらしているものや、体中を無数のガラスや木材の破片に貫かれて悶死したものなど、炭化していたほうがまだマシだったとさえ思えるものしかなかった。

それよりもさらにひどいものは、その状態でもまだ息のあるものだった。

「助け・・・て・・・・・・」

「・・・・・・坊や、坊・・・・・・」

「痛い痛イイタイ・・・イタ・・・・・・・・・イ」

「ナニ・・・・・・ミエナイ・・・ナニ?」

「クソ・・・・・・クソ・・・・・・・イテェ」

「水、喉・・・・・・焼ける。熱い・・・・・・水」

「お母・・・・・・さん」

苦悶と苦痛が呪詛のようにひしめいていた。

「すまない」

荒耶はその声に全て答えたかった。

己自身も、守護者との戦いで全身に深い傷を負い、さきほどの熱線で右顔面は焼け爛れていたが、そんな苦痛など関係ない。

自分なら人を救えると信じている彼は、今こそ死に行く人々を救いたかった。

「すまない・・・すまない・・・すまない」

だが、現実は彼にできることなど何もなかった。

苦痛を和らげることも、命をつなぎとめることも、死の恐怖を緩和させることも、荒耶宗蓮にはできない。

ただ生きながらえて見ることしかできない。

「すまない・・・本当にすまない・・・」

救えない己の無力と矮小さを、全ての人々に懺悔しながら、彼は一つ一つの死を焼き付けることしかできないでいた。

せめて死を蒐集することしかできなかった。

「すまない・・・・・・すまない・・・・・・」

それでも彼が道を進むのは、ただ一つだけ諦め切れないものがあったからだ。

(小清水洋太!)

兄も姉も、誰も護れなかった。

身近なものさえ救えなかった。

だから、せめて彼らの最後の願いだけはかなえてやりたかった。

(生きていてくれ!)

灼熱の中をボロボロの体を引きずるように歩く。

目に付く全ての人々に謝罪し、その死を脳に深く焼き付けながら、小清水家へ向かった。

「すまないすまないすまないすまないすまないすまないすまない・・・・・・・・・・・・」

ほどなく、見慣れているはずの小清水家が視界に入った。

しかし、家は倒壊し、火を放って燃え盛っていた。

「・・・・・・・・・ぬあぁぁぁぁ!!!!!!」

荒耶は絶叫しながら、崩れて跡形も無い玄関口へ向かった。

生存が絶望的なことは分かっている。しかし、それでもこの目で見るまでは諦められなかった。

「ぐあぁぁぁぁぁ!!!!!」

倒壊し燃え盛る木材を強引に掴み力任せに持ち上げる。掴んだ両腕はもとより、火と熱波が荒耶の全身を焼いた。

「洋太!返事をしろ!!!!」

焼かれることなど意に介さず、荒耶は次々と木材を処理していく。

「小清水洋太!!!!!!!」

「・・・・・・ソー・・・・レン・・・・・・」

「!!?」

か細い声が聞こえて、荒耶は手を止めた。

「洋太!」

「ソーレン・・・・・・どこ?」

声のした方に目をやる。

火の粉と熱波によって視界はぼやけているが、それでもまだ火が迫っていない中庭の一部に小清水洋太は仰向けに倒れているのが見えた。

「洋太!待っていろ!!!!」

中庭へ向うには火の海を越えていかなければならなかったが、荒耶はその海を意に介さず踏み越え、あっという間に洋太の元へ降り立った。

「!!」

一目見た瞬間、荒耶は絶句した。

彼の体はすっかり小さくなってしまっていた。

無事だったのは見えていた上半身だけで、洋太の下半身は炭化しすでに崩れていたのだ。

「・・・・・・洋太」

その小さな体を抱きかかえる。

洋太は口から血を流しながらしゃべりだした。壮絶な激痛があるだろうに、それでも知った顔に会えたからか、彼は安心したように微笑みかけてくる。

「ソーレン・・・・・・ごめん。いきなりで、家、守れなかった。兄ちゃんと約束したのに・・・・・・」

「いや、お前は勇敢だった。大佐も喜んでくれる」

額の汗を拭ってやりながら荒耶は声をかける。そういわれてうれしかったのか、洋太はヘヘと笑って見せてくれた。

それでも、もはや助ける手立ては無かった。

己の無力に憎悪さえ感じながら、荒耶は少しでも洋太の意識をつなぎとめようと彼の背中を擦り続ける。

「そう・・・・・・だね。ソーレンも家族になるん・・・・・・カハッ!もうちょっと・・・・・・ヒュー・・・・・・大きな家に・・・・・」

「あぁ、一緒に・・・・・・家は建てればいい」

「へへ・・・・・・あっ、そうだソー・・・レン・・・」

「なんだ?」

「・・・・僕・・・・・・・泣かなかっ・・・・・・・・・」

そこで大きく、彼は吐血して言葉が止まった。

そのまま、動かなくなる。

「・・・・・・・・・洋太?」

呼びかけるが、返事はない。

「――――」

小清水洋太はもう死んでいた。その表情が苦痛や苦悶ではなく、微笑みであったとしても、もう、死んでいた。

抱えた腕はどんどんと体温が失われていくのを感じる。

「洋太・・・・・・目を覚ませ・・・」

荒耶は何度も何度もその背中を擦った。

彼の背後では火がいよいよ勢いを増していたが、そんなものはまったく気にならなかった。

「なぁ、起きてくれ。私は、耕也も加奈も救えなかった。お前まで救えないというのか」

荒耶は人を救うために生きてきた。

「洋太。頼む。私の願いを叶えてくれ」

「・・・・・・・・・」

「私は、人が・・・・・・・救いたいんだ・・・・・・・・・」

それは、150年以上を生きた男の血を吐くような頼みだった。

しかし、その瞬間、その言葉を否定するように、炎が彼らの周りを包むように燃え上がり、荒耶と洋太は炎に包まれた。

彼の四方は完全に炎の壁に阻まれた。

「――――」

その中で、洋太の亡骸を抱えて荒耶は立ち上がり空を見上げた。

空は爆発による影響か、まだ早朝であるというのに暗雲に太陽をさえぎられさながら夜の闇の中にいるようだった。

暗闇の空へ、荒耶は叫んだ。

「天よ!これが答えか!」

人々の絶望の声や、建物が崩れ落ちる音、劫火の音さえも遮るほどの声量である。

「人の世を救うために、一部の人の世を滅ぼすというのか!」

その声はどんな呪詛よりも禍々しい怨嗟の声。

「ならば私は貴様の敵だ!」

我知らず、胸にある亡骸を強く抱きしめる。

「貴様にとって塵芥でしかない我々に価値など無いのだ!私も人など救えないのだ!それは理解した!」

それは己の無力に対する憎悪も相まっているかのようだった。

「そして人は確かに愚かだ!この破壊も人がもたらしたものだ!この地獄は人が招いたものだ・・・・・・・それでも、必死に人々は生きている!それを貴様に理解させてやる!」

荒耶宗蓮は、燃え盛る劫火の中にあっても、そこに静止していた。

「これから私は、人の生死を明確に記録しよう。貴様が塵芥だとする人間の中に、練磨された魂の中に、貴様に到達する道は必ずあるからだ!無意味な生などないことを教えてやる!」

吼え声を天に届けとばかりに叫ぶ。

「塵芥である人間が、貴様を必ず殺してやる!」

洋太の亡骸を片手に抱きかかえ、天へ拳を突き上げる。

 

1945年8月6日のことだった。

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

1945年8月15日

 

戦争は終結した。

ここから、日本は大きな傷痕を残し、それでも再生へと歩み始める。

前進か後退か、それはわからないが、時代は進むことしか出来ない。

 

だが、ここに、全てを静止させた男が一人存在した。

 

荒耶宗蓮の体はすでに限界に来ていた。

長く生き続けた肉体は、守護者との戦いと原爆の光によって完全に死に体になっており、七日ほど前から体の節々が腐り落ち始め、今や下半身はグズグズに崩れ果て、立ち上がることもできなくなっていた。

それでも彼は黙々と作業を続けた。

蒐集した死体をつなぎ合わせ、できるだけ自分の体に似通わせていった。

それは彼の新しい体だった。

彼はまだ死ぬわけにはいかなかったからだ。

男も女も、子供も老人も使った。洋太も使った。

強烈な腐臭の中、荒耶は自身の代替となる人形を作り上げていく。

時間が経つにつれ、完成していく人形とは逆に彼の体はどんどん崩れていった。

全ての作業を終え、人形が完成した頃には、残っていたのは左腕から頭の部分だけだった。

その状態で、彼は最後の力を振り絞って人形に――己自身に、語り始めた。

「アラヤ、何を求める」

問いに呼応するように、仰向けに寝転がっていた人形は上体を起こした。

澱んだ両の目で死に行く荒耶を見つめながら、

「――真の」

静かに答えを口にする。

「叡智を」

荒耶はそれに満足しながら、

「アラヤ、何処に求める」

「――ただ、己が内にのみ」

ついに荒耶の頭部が溶け出し、ドロドロと頭頂部から崩れ始めた。それでも彼は問いをやめない。

「アラヤ、何処を、目指す」

ついに、口と左腕だけとなった荒耶が最後の言葉を口にした。

そして、荒耶宗蓮は消え、

「――――知れた事。この矛盾した、螺旋の果てを」

人形は新たな荒耶宗蓮となって起き上がった。

 

苦悩はより色濃く、確かな世界への憎悪と、人を救うことができない己への憎悪をその胸に秘めて。

 

闇よりもなおも濃い、苦悩はいつまでも続く。永遠に続く。

 

なぜなら、この世に慈救咒は無いのだから。

 

 

 

 

 

 

 

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